「で、元彼の部屋まで入って?どんな間取りだった?」
「ちょっ、待っ」
「寝室は別だった?」
「あっ、別、うちみたいな、リビングの横に部屋がある、みたいな…っ」
橘の手がお湯の中で自由に、遊ぶように跳ねていく。
反対の手はお腹に回されていて、距離を取ることすら許されない。
「で、ベッドに寝かせたの?詩乃が?」
「そ、うっ」
「それだけ?何もされなかったの?」
「されて、ないっ」
自分の身体が暴れる度に、ちゃぽんと水音と飛沫が散っていく。
後ろから覆われるように、刺すような声が耳元から直接脳内に響いていく。
「何か言われた?また飲もうねとか、友達としてこれからも仲良くしてねとか」
「なんでっ、今、そんなことっ」
「そういう時に男が言うセリフなんか、大体同じなんだよ」
「言われて、ないって」
湯船が狭くて、身動きが取れない分、いつもよりも身体の逃げ場がなくて、力の抜き方が分からなかった。
「そもそも詩乃は、何で元彼の体調不良に気がついたの?」
「トイレ、たまたま行ったら、うずくまってたから、声、かけただけっ」
橘は納得がいってないような声で「ふうん」と言いながら、手を止めた。
これで質問は終わったのかと息を吐くと、橘は「こっち向いて」と詩乃の向きを変えた。
「今日は、詩乃が嫌って言うことを、敢えてしようかな?」
「は、なんで?」
「んー、敢えて?対抗して?」
「…何に?」
立ち上る湯気が、全て隠してくれたらいいのに。
明るい浴室で、こめかみから汗が流れてくるのが分かる。
清潔にするはずの場所で、一体何をしているんだろう。
「食堂のレンジのところで、親密そうだったっていう、元彼」
「…っ」
詩乃の耳元に唇を当てて、静かに呟いた橘の言葉に、身体が強張ったことは、きっと伝わっただろう。
「だめだよ、会社で隙を見せたら」
「…ごめん」
「すぐに噂になるよ?営業部の子達、口が軽い子が多くてね」
身体を少し離した橘の顔は、口元は笑っているのに目だけが冷たく光っているようで怖かった。
思わず視線を逸らした詩乃を見て、静かに笑みをこぼし、橘は「先に洗うね」と湯船から出た。
「うん…」
橘が立ち上がって、一気に湯量が下がった風呂場では、先ほどまでの空気などなんてことなかったかのように身体を洗う、橘のシャワーの音だけが響いていた。
「詩乃、俺の部屋着でいい?」
「ありがとう」
橘がタオルで頭を拭きながら、「あんまり使ってない服だから綺麗だと思うけど」と言いながら白いTシャツを手渡してきた。先ほどの風呂場の尋問で満足したのか、笑みを浮かべていた。
そういえば私の家に来ることがほとんどだったから、部屋着は持ち込んでいないんだよな。そう思いながらTシャツを受け取り、下の服も受け取ろうと手を出すと、橘が不思議そうな顔をした。
「なに?」
「え、下も欲しいんだけど」
「いらなくない?」
「いらないわけないでしょ」
受け取ったTシャツを広げると、橘でもオーバーサイズな大きめのものだった。お尻は隠れるだろうが、それだけだと心許ない。
「一回着てみたら?ほらタオル取って」
「ちょっと、今はもう無理なのっ」
脱衣所で大きいバスタオルにくるまる詩乃に、じり、と近づき手を伸ばしてきた橘の顔は楽しそうで、詩乃はその手を避けながら後ろに下がる。
「えーなに想像したの?」
「何もしてないっ、早くちょうだい」
「一回着てみて、見えそうだったら渡すよ」
結局一回はTシャツだけにならないといけないというわけではないか。
もしかして急に予定を変更して、橘の家にしたのは、こういう思惑があったのではないかと今更ながら疑うが、きっと問い詰めてもこの調子でかわされるだけだろう。
「もー!」
橘から逃げるように、下着とTシャツだけを持ってリビングの方へと行くが、橘は追って来なかった。素早く橘の匂いが香るTシャツを身につけると、ラウンドネックのそれは肩も少し緩かった。
それなりに隠れるかなと思った裾は、お尻の下ぎりぎりまであるかどうかで、ワンピースのようにはならなかった。
裾をどれだけ下に引っ張っても、動くたびに太ももの内側が外気に触れて、ヒヤリとする。
こんなの少しでも手を上げたりしたら丸見えなんだけど、と思い、裾を下に引っ張りながら橘の元へと戻る。
「絶対、下いるって」
「…あー、そんな感じなんだー」
いつか真菜が「橘くんって実はめっちゃ変態だと思う」と言っていたことを不意に思い出す。正解、むっつりで変態です。
橘を睨むと、観察するようにじろりと詩乃を眺めていた顔が、楽しそうに綻んだ。
「ねぇ、恥ずかしいって」
「俺、詩乃が恥ずかしがってんのツボかも」
「変態!」
「彼シャツって懐疑的だったんだけどねー」
「ねぇ真尋っ」
「映画でも見よっか?」
体力が持たない。
こんなに翻弄されて、それに縋れば縋るほど、この男を調子に乗らせるだけだと分かっているのに。
風呂上がりの橘の髪の毛は毛先が少しだけ跳ねている。
柔らかい雰囲気はいつも通りなのに、上品で、口角を少し上げて、楽しそうに詩乃を見つめている。
「…いじわるするなら、今日はしないよ」
「えっ!」
それとこれとは別じゃん、と慌てるような橘に向かって今度は詩乃がにやりと笑い、髪の毛を乾かすべくドライヤーを手に取った。
「…出しとくから」
「お願いね」
橘は仕方なさそうに言って、リビングに消えていった。
きっと戻ることには出してくれているだろうと、詩乃は髪の毛を乾かした。
「…俺、こんなに彼女に翻弄されたことない」
「ふうん?そうなの?」
リビングに向かうと、橘が面白くなさそうに部屋着を渡してきた。
遠慮なく、ゆったりとしたスウェット生地のズボンを履き、ビーズクッションに座っている橘の隣に腰を下ろす。
「詩乃は、色んな男の心に残ってそう」
「なにそれ」
詩乃が笑うと、橘はこちらを向いた。
その顔はいつも通りの表情に戻っている。
「まぁ俺は、どっちかっていうと、鎖骨にそそられるんだよね」
「え?」
その言葉に思わず顔を見上げると、腕を引かれた。
勢いのままにその身体に引き寄せられ、硬い胸板にぶつかる。
「だからわざと、そういう服にしたの」
「な、」
「女の子の肩がチラッて見えてるのって、いいよね」
「はっ!?」
じゅくり。
その距離のままに鎖骨あたりにじんわりと広がる熱。
ああ、またやられたのか。
「太もも、想定外に楽しませてもらったけど、こっちが本命」
「見えるところは、だめだって言ったじゃん…」
詩乃が身体を起こしてそう言うと、橘は上機嫌に笑っていた。
そうして唇が近付いてきても、それは嫌ではない。
橘の手中に嵌って、もがいていくこの空間が嫌ではないなんて、もうきっとここは沼の中に違いない。



