橋立は優しくて聞き上手で、とても話しやすかった。
そして詩乃は、少しだけ調子に乗っていた。
二軒目は駅ナカの小さい飲み屋で、思いっきり話を聞いてもらって一時間ほどして解散した。すぐに橘に連絡をして、十五分後に最寄り駅に着く頃、車で迎えに来た。
「ごめんね、遅くなって」
「いや…全然」
橘の車に乗るのは二回目だったのに、ついこの間のことがすごく前に感じる。
車に乗り込みながら、そういえば化粧も直していなかったな、などと思うも、アルコールの力もあってか、もうそんなことはどうでもいいような気がしていた。
「飲んでたの?」
橘はゆっくりと車を走らせながら、チラリと詩乃に視線を送った。
詩乃も視線を感じて、橘を見返す。橘は、今日もラフな白のTシャツに、ゆるいシルエットのデニムを履いていた。
「うん」
「結構酔ってる?」
「そこそこ飲んだけど、大丈夫」
「そっか。…春田さん?」
「…んーん、友達」
「そう」
橋立と飲んでいたことは、言いたくなかった。
橘の話をしたんだなと思われるのが嫌で、咄嗟に言わなかった。
「橘は、今日は早かったの?」
「うん、営業先から直帰したから」
「そっか」
車内には、先日とは違うプレイリストがかかってた。
前回は流行りの曲だったのに、有名な男性アーティストの曲が流れていて、こういうのが好きなんだ、と窓の外に流れていく景色を眺めながら、考えていた。
「どこ行くの?」
「決めてない」
この間のことなど、何もなかったかのように振る舞う橘に合わせて、詩乃も同じように振る舞った。長く使われてきたであろう車のシートに、頭をもたれさせた。
「…なに?」
詩乃が橘に視線を送ると、橘が前を向きながら言った。
片手でハンドルを操作して、たまに流し目でナビに目線を送る。それだけでここまで様になるこの男が憎い。なんてことのないシンプルな服を、軽く着こなすこの男に見惚れる自分も、同じように憎い。
「…なんにも」
この間より、長く走っていたと思う。
先日降りた河川敷を越え、きっと二十分くらい走っていた。
湾岸道路の薄暗い影を抜けた瞬間、フロントガラスいっぱいに巨大な空がなだれ込んできた。
橘はハンドルを切って大きな公園の駐車場に入ると、車を停めた。
等間隔に植えられたヤシの木と、月に照らされている噴水が、車から見えた。
「…公園?」
「うん、なんとなく」
車を降りると、海風が詩乃の髪の毛を攫っていった。
昼間は家族連れがテントを張って、駐車場が満車になるような公園だが、今は車はほとんど停まっていない。
「…夜風に当たったほうがいいかと思って」
橘は詩乃にそう言い、歩き出した。詩乃もその後を追う。
私が、酔ってるって言ったから、ここにしてくれたの?
会社帰りの格好の詩乃は、青みピンクのブラウス、黒いタイトスカートだ。黒の履きやすいパンプスの、少しだけあるヒールが、駐車場のアスファルトを鳴らす。
「暑い?」
「…ううん」
橘が、公園の入り口にある自動販売機で、水を買って詩乃に手渡した。
白く明るく照らされる整った顔は、真っ直ぐに詩乃を見ていた。
「ありがと」
「今日は、風があるね」
「…うん」
橘は、手に持っていたグレーの羽織を詩乃の肩にかけた。
橋立と飲んでいた時よりも風を感じるのは、夜が深いからか、海が近いからか。
公園の隅にある大観覧車は、もう停止しているようだった。
なんの光も灯っていない鉄骨が、暗い空で浮いている。
「寒かったら、帰ろ」
「大丈夫」
詩乃は橘が肩にかけてくれた羽織に、袖を通した。
車でも身につけていなかったこの服は、もしかして詩乃のために持ってきてくれたのだろうか。いつもの橘の香水よりではなく、柔軟剤の香りがした。
「…この間、吉野がカラオケの動画送ってきたの、知ってる?」
「何それ?」
「昔の、サークルの時のだって。詩乃も映ってたよ」
「え!何それ!私変な感じじゃなかった!?」
「ふ、変な感じって何」
座ろ、と橘が歩きながら見つけたベンチを指さして、二人でそのベンチに腰掛ける。
スマホをパンツのポケットから取り出し、操作しながら言う橘の言葉に、詩乃は思わず橘の腕を取って詰め寄る。橘が笑いながらスマホを操作して、吉野から送られてきたらしい動画を詩乃に見せた。
保存してるじゃん、と詩乃は思うも、口には出さない。
「あー、この時のね…まだマシ」
「何、ダメな時があるの?」
「ある、大学一年とか芋すぎて絶対見せたくない」
「ハシケンに頼んだら、そん時の写真くらい持ってそうだけど」
「絶対やめて!」
橋立とは大学一年生からの付き合いだ、そしてあの男のことだから絶対に持っている。そう思って詩乃は必死になって橘に訴え、橘はそれに笑った。
あ、いつもみたいな空気。
詩乃は、チラリと橘を見ながら思った。距離も、いつものように近い。
「逆にハシケンの大学一年生の頃の写真、詩乃は持ってんの?」
「えー…イベントの時の写真に残ってるかなぁ」
「女の子は写真撮るよね」
俺、ハシケンの写真なんか多分一枚も入ってないわ、と橘は言った。
詩乃はスマホを取り出し、スクロールして橋立の写真を見つけて、その画面を橘に差し出すようにして見せた。
「あった、これ——…」
「……」
暗い公園で、スマホのバックライトが白く詩乃の指先を照らし出す。
その画面を橘が覗き込んだ瞬間、スマホの通知が画面の上からひょこりと現れる。
【橋立:さっきはありがと!無事帰れた?】
「…なに、今の通知?」
その文字が網膜に焼き付いた瞬間、詩乃は自分の体温が急激に引いていくような錯覚を覚えた。
左隣の橘の声が、先ほどよりも固い。
詩乃が思わず逸らした視線が、後ろめたさを表しているようだった。
肩にかけられた橘の羽織から、穏やかな柔軟剤の香りが立ち昇る。
つい数分前までは、その香りに包まれているだけで嬉しかったのに。
今はその清潔な匂いが、嘘を隠していた自分を責めているように感じて、詩乃は思わず羽織の襟を握りしめた。


