あのあと、橘から連絡が来ることはなかった。
詩乃からすることもなかった。
それが関係の終わりを示しているんじゃないかって、今までのことはもう全部忘れようって言われているようで、たまに橘のことを思い返すと、涙が溢れそうになった。
「詩乃ちゃん」
「ハシケン!」
金曜日、会社のエレベーターを降りて、エントランスを歩き出した詩乃の肩を、誰かが軽く叩いた。振り返ると、橋立が立っていて、詩乃は声を上げた。
「今終わり?」
「うん、ハシケンも?」
「そう。会社で一緒になるの、珍しいね」
「本当だね、フロアが違うと本当に会わないね」
駅までの道を橋立と並んで進んでいく。
隣の橋立を見上げると、ん?とにこやかな顔で返された。
詩乃よりも身長は高い。橘よりは少し低い気もする、と思って、詩乃は苦笑した。
「なに?」
「ううん、なにもだよ」
「…詩乃ちゃん、良かったらこの後ご飯でもどう?」
「え?」
「せっかくだし、金曜だし」
にこやかにそう言った橋立の言葉に、詩乃は思わず頷いた。
「ほんと?俺、ちょうど行きたい店あったんだけど、付き合ってくれる?」
「うん、いいよ。どこ?」
「あのね、あっちの丸ビルの方なんだけど…」
そう言いながら歩き出す橋立の隣に詩乃は着いていく。
五分も歩かないうちに着いたのは、駅ビルの高層階にあるレストランだった。
思ったよりオシャレな選択に少し気が引けたが、店内はサラリーマンも多いカジュアルな店だった。
「テラスが綺麗なんだって、どう?」
「あ、じゃあそうしよっか」
今ならテラス席も空いてますよ、との店員の言葉に橋立が振り返り、詩乃に確認をする。オシャレな内装に気分が上がった詩乃は、せっかくだからとその提案を受け入れた。
「ごめんね、すっごい雰囲気のいいところで」
「ううん、全然。オシャレなお店で嬉しい」
「ね、オシャレだよね!行きたいなーと思ってたんだけど、男だけでは何となくねー」
「えサラリーマンの人たちもいたよ?」
「詩乃ちゃん見てなかった?隣の女の子グループに声かけてたよ、あの人たち」
「えっ」
「そういう目的も入ってたらいいかもねー、雰囲気いいし」
相変わらず視野が広い橋立の言葉に、詩乃はなるほど…と頷くことしかできない。
なに飲む?と差し出されたドリンクメニューから、詩乃はハイボールを選んだ。
橋立はお酒に強いから、何だか安心して飲める。
「俺も同じもので」
そう言って橋立と同じグラスを、乾杯と合わせた。
足元を照らす小さなランタンの光が、グラスの中で揺れる琥珀色の液体に反射している。
デートに向いてそうな店だが、目の前にいるのが橋立なのが不思議な感じがする。大人数での食事や飲み会は何度も経験しているが、そういえば二人で店に入ったのは、初めてかもしれない。
テラスの向こう側の喧騒が遠くへ退いて、テラスには丸の内の夜風が街の光を運んでいるようだ。
「なに食べる?ラテンイタリアンだって」
「へえ…あ、このショートパスタ美味しそう」
「いいね、そしたらそれと…詩乃ちゃん生ハム好きだよね?」
「よく覚えてるね」
「飲み会たくさんしたからね」
橋立はニコリと笑って、メニューの紙を覗き込んだ。
変わったものがたくさんあって、どれにしようか迷いながら文字を追っていると、一枚の紙を覗き込む橋立との距離が近いことに何となく気づいて、少しだけ顔の位置をずらした。
「なんかあった?」
「え?」
「ちょっと、元気なさそう」
「え、」
「分かるよ、俺らサークルであんなに話してたじゃん」
橋立はそう言いながら、遠くにいる店員に向かって手をあげた。
詩乃はその目線を一緒になって追う。
すぐにテーブルにやってきた店員に、いくつかのメニューを頼んだ。メモに書き取って、品よくお辞儀をして去っていった店員から詩乃へと視線を移すと、橋立は言った。
「橘と、なんかあった?」
「えっ」
「妬けるなあ、俺の方が友達歴は長いのに」
「…どこまで知ってるの?」
そういえばこの間、橘がハシケンと飲んだと言ってたなと思い出して、詩乃は問いかけた。橋立は頬杖をつきながら、口角を少し上げて言った。
「なにも。勘だよ。やっぱ合ってたか」
「…ずるい」
「何でよ、話しちゃいなよ」
「共通の友達として、そういうの聞かされるの嫌じゃない?」
「全然。俺、恋バナ大好きだし」
微笑みながらケロリと言う橋立に、詩乃は少し迷いながらも話した。
橋立は黙って、たまに相槌を打ちながら聞いてくれた。
「そっかー、頑張ったね、詩乃ちゃん」
「っねえ、やめてハシケン」
「ははは、泣いちゃう?」
「ほんとに、今の私、涙腺が壊れかけてるから」
「いいよ、夜だしテラスで暗いし、誰も見てない」
橘の前で感じる呼吸が止まりそうな圧迫感とは正反対の、深呼吸ができるような安堵だった。橋立の前でだけは、素直に傷ついたと認められる。
「やめてよ」
「気にしないのに」
少し奥に設置されている、透明な柵の奥には、丸の内の夜景が煌めいている。
あまりにも綺麗な夜景が、今の自分のぐちゃぐちゃな心には眩しすぎて、詩乃は思わず目を細めた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
詩乃は咄嗟にスマホだけを持って、ガタリと席を立った。
座り心地の良い、グレーの一人用のソファ椅子がコンクリートの床と擦れて音を立てた。じわりと滲む視界を誤魔化しながら店を出て、ビル内の表示に従って進んでトイレに入った。
綺麗なトイレのパウダールームで、気持ちを落ち着かせてスマホを見ると、橘からのメッセージが通知されていた。
【今日、会える?】
単純なその文章に、様々な感情が湧き上がる。
時間を見ると、十分前に送られてきていた。
飛びついてそれに返信をするのも悔しくて、別にそんな平気だよ、というふりをしていないとまた涙が溢れそうだった。
パウダールームの明るすぎる鏡の中で、自分の顔がひどく強張っているのに気づく。冷たい水で指先を冷やした。
【何時になるか分からないけど、良いよ】
【分かった、また教えて】
送った文章にすぐに既読がついて、返事が来た。
既読がつかないようにして目を通し、滲んでいた涙を拭いて、橋立の元に戻った。
「詩乃ちゃん、ラストオーダーだって」
「え、そうなの」
「金曜だからかな?時間制限あるみたい」
席に戻ると、橋立がメニューの紙をピラリと詩乃に見せてきた。
詩乃がいない間に店員に声をかけられたのだろう。
「そうなんだ。…二軒目、行く?」
「良いね、続き聞かせてよ」
何時になるか分からない、と言ってしまった手前、すぐに会えるとは言いたくない。
それに、すぐに返事を返すくらい私からのメッセージを待っている橘を、少し焦らしてやろうと思った。
ここで、プライドを捨てられないのが、私の良くないところなんだろうな。そう思いながらも、詩乃はスマホをバッグの奥へと滑り込ませる。
私はこの一週間、待ったもん。
橘も少しくらい、待っててね。


