橘の家は、河川敷から十分程度だった。
なんとなく視線をカーナビに移すと、橘の最寄り駅からすぐで、雨の日の出勤に便利だろうな、なんてぼんやりと詩乃は考えていた。
敷地内にある駐車場に車を停めて、エンジンを切った橘は、詩乃に視線を送った。
「着いたよ」
「…うん」
橘は詩乃のシートベルトをそっと外した。その動作にびくりと肩を震わせた詩乃に気付き、優しく抱き寄せた。
「…嫌なことはしないよ」
「…うん」
耳元で囁くように言葉を落とされる。吐息は変わらず熱い。
詩乃もそろりと手を伸ばして、橘のTシャツを掴んだ。
身体がゆっくりと離れ、橘は車のドアを開けた。
詩乃も同じようにして、車から降りるところを、橘は黙って待っていた。
「行こっか」
詩乃が隣に立つと、橘は手を取って歩き出した。
なんだか恥ずかしくて隣を歩けなくて、半歩後ろを歩いた。
横顔を盗み見るも、なんの感情も読み取れない。
橘は、なんでシラフで私を家に連れてきたんだろうか。
自分の気持ちを認めたばかりの詩乃は、橘にそれを聞く余裕など持ち合わせていない。
「八階なんだよね」
独り言かのように、橘は言った。
築年数は、詩乃の家とそう変わらないように思えた。
十階ほどのマンションの綺麗なエントランスに足を踏み入れ、橘はエレベーターのボタンを押した。
エレベーター横に設置されたモニターが、誰もいない箱の中を映し出していた。
コンクリートで囲まれたエントランスはとても静かで、少しの足音すら響くような気がした。
「どうぞ」
「ありがとう」
鉄のドアがゆっくりと開いて、橘が詩乃に先に行くように促した。
詩乃が先に乗り込み、角の壁にもたれて、乗り込んでくる橘の足元をぼんやりと見ていた。
よく、女の人を連れ込んだりするのだろうか。
そんな疑問が湧いて出るも、口に出す勇気はない。
橘がエレベーターに乗ると、その箱は少しだけ沈んだ。
八のボタンを押すとオレンジ色に光り、そのまま、ドアが閉じていくのを視界の隅で見ていた。
「ん、っ」
くるりと橘が向き直り、狭いエレベーターの角に立つ詩乃に、覆い被さるようにして唇を重ねた。啄むようなそれに目を閉じて受け止めていた詩乃だったが、エレベーター横のモニターを思い出し、橘の胸を軽く押した。
「待っ、たちば、」
「ん?」
そう言いながらも、橘の唇は離れなかった。
橘の胸を押す詩乃の手も、何の意味もなかった。
「ね、これ、映って」
「ん、」
「ね、見られる」
「平気」
橘は何も気にしていないかのように続けた。
勢いに押され、壁に詩乃の髪の毛が擦れていく。
「行こ」
ドアが開いて、橘は詩乃の手を取った。
するりと絡まった指に、もう意識は向かない。
マンションの廊下に、住宅街が見えた。詩乃の家から見えるものより、高い建物が多い。
ガチャリと音を立てて鍵を回し、先に入った橘に引っ張られるような形で玄関に立った。背後でドアが閉まり、真っ暗になった玄関で、橘は詩乃の顎を掬うようにして持ち上げ、上から唇を降らせる。
「んっ、ね、」
「ん?」
「こんな、」
「なに?」
「こんな、すぐ」
「うん」
自分が発する単語の意味など、気にしていないようだった。
こんながっついた、余裕のなさそうなキス、この男もするんだ。
いつも、何でもないような顔をして、同期の女の子からの誘いも飄々とかわして、掴めないくせに。
詩乃の顎は強制的に向きを変えられ、降ってくるキスを受け止めるのに精一杯だ。
上を向かされているからか、舌が侵入してきているからか、平衡感覚がおかしくなりそうだ。
「っん」
詩乃の腰がふにゃりと揺らいだ。
それが分かっていたかのように、橘は腰に手を添えた。
もう立っていたくなどない。何かに寄りかかってしまいたいのに、それを許してくれないように力を添えられて無理やり立たされているようだ。
「待っ、橘、」
「…リビング、行こっか?」
与えられた提案は、寝室ではなかった。
やらないよ、という自分の言葉が、自分の首を絞めているような気がした。
もうとっくに理性なんかないのに。
もうそんなこと、どうだっていいのに。
ふにゃりとした腰を支えてほしくて、詩乃は橘に寄りかかった。
柔らかいTシャツの奥に、固い筋肉を感じて、それがどうしようもなく疼く。
「たちばな、」
「嫌なことはしないって言ったでしょ?」
詩乃の手首を優しく引っ張って、橘はリビングの大きなビーズクッションの上に、詩乃を座らせた。
リビングのクッションに沈み込みながら、視線の先に開け放たれた寝室の闇が見える。
一人暮らしの橘の家は、詩乃の家より少し狭い気がした。
ソファは置かれておらず、テレビの前の空間には、ふわりとしたラグと、大きなビーズクッションが二つ置かれていた。
「詩乃、」
部屋の様子を見る余裕もなく、詩乃の上に覆い被さるようにしてきた橘の声に、詩乃は一気に思考を引き戻される。
「ん、」
「だから、今日は、しないよ」
ここまで連れてきておいて、そんな声で私を呼んで、そんなキスをしておいて、しないだなんてやめてほしい。先ほどの青い光に照らされた車内を思い出して、あの時の焦燥感が、詩乃の全身に広がっていく。
「して」
「ん?」
「して」
「…いやじゃないの?」
「いやじゃないから、して」
とことん私をみっともなくして、自分で選ばせて、きっと橘の思い通りに動いてしまう自分のプライドなど、どうなってもいい。
橘に引っ張り上げられ、開けっぱなしだったリビング隣の寝室までは、数歩だった。その少しの距離を経て辿り着いた、シーツの柔らかな海。
お酒の匂いもしない、嘘の言い訳も使えない、真っ白な夜。
こんなにも欲しがらせといて、私、忘れないよ?
詩乃の首元に顔を埋める橘の髪を指でなぞりながら、そう思った。


