今夜は君の夜屑

 
 
 
  
 
 
 
 
「…まだ一緒にいたい」
「っは、ぁ」

少しだけ唇が離れて、詩乃と橘の唇の間に糸が引いた。
なんで、光っているんだろう、街灯もないのに、こんなに暗いのに。
ああ、夜空の、光か。

夜空の冷たい輝きさえも、橘と共有している熱の正当化に使ってしまえたら。

「俺んち、来る?」
「…っ」

また、キスしてほしいだなんて思った私は、もうダメなのかもしれない。


遊ばれるのは嫌だ、でもキスがしたい。セフレにはなりたくない、でも橘と一緒にいたい。こんな気持ちを抱えたまま、どうしろというんだ。


橘に、私のことを好きになってほしい。


お互いがシラフなのに、身体を重ねたらどうなってしまうんだろう。
詩乃の中で、理性と欲望が渦巻いている。

「…しないよ」
「いいよ」
「……ほんとに、しないよ」
「…キスだけならいい?」
「……」

この沈黙を肯定と取らない橘に安堵する。まだ、流されたという体でいたい。橘が私を好きじゃなかった時の保険が、欲しいから。

「新田、こっち向いて」
「…なんで」

無理やり、さっきは向かせたくせに。
車の座席の、半分ほどは橘の面積が占めているのに。
もっと逃げ道を塞ぐことくらい、造作もないくせに。

「新田とキスしたいから」
「…待って、よ」
「待ってるじゃん」

さっきは、詩乃って呼んだり、新田って呼んだり、なんなの。
新田って呼ばれながらその熱っぽい視線を向けられると、橘の気持ちが分からなくて、詩乃の頭の中が余計に混乱していく。

どうしたいの、橘は。
もうお酒っていう免罪符はないのに、忘れるっていう言い訳は使えないのに、


「詩乃って呼んだ方がいい?」
「…何それ」
「俺の方、向いてくれるのはどっち?」
「…どっちでもいいよ」

橘は詩乃の顔の近くで低い声で、ぼそりと呟くように話す。
エンジンをかけた時から流れているはずの音楽が、全く耳に入ってこない。
ああそういえば、ペットボトルが落ちたんだった、拾わなきゃ。なんて、関係ないことを思ってしまうのは、現実逃避だろうか。

「詩乃、俺んち行こ?」
「…いいよ」

そう言って詩乃は、橘の方に顔を向けて、ゆっくりと近づけた。
そのままお互いの意思を持ったまま、ゆらりと顔が合わさって、唇が触れた。

橘が詩乃の指先から、詩乃の手にずっと握られていたペットボトルを抜き取るようにして奪い、器用にドリンクホルダーに入れた。
両手が空になった途端、橘の手が入り込んでくる。

「ん、っ」

指先が絡まり合い、わざと音を立ててキスが繰り返される。
きっと家を出る前に塗ってきた、落ち着いたコーラルピンクのリップはとっくに落ちている。潤いと色を失って、乾燥しているはずの詩乃の唇は、どちらかの水分でしっとりとしたままだった。


「かわいい」


橘がキスの合間に言った。
詩乃は返事をする余裕もなく、繰り返される唇に応えるので精一杯だった。

「…行こっか?」
「…は、っ、うん…」

ぷは、と唇を離すと、橘が詩乃の頬を指の腹でゆっくりと撫でた。
目尻に浮かんでいた涙を拭われて、くたりと座席に背中を預けると、橘が詩乃のシートベルトを丁寧に締めた。

結局、詩乃がどう足掻いても、橘の戦略に嵌っているような気がするし、キスされてしまったらそれでもう負けてしまう。

ゆっくりと発進した車は、きっと橘の家までなら十分程度で着くのだろう。
それすらも、見越していたのかと少しだけ悔しい。


「詩乃」

赤信号で車が停まると、橘が詩乃の方を向いて名前を呼んだ。
少しだけ身体を助手席に寄せて、自分の唇を指差している。

「えっ、」
「はやく」

斜め前にある歩行者信号は、青く広く、その輝きと表示を周囲に照らしていて、しばらくそれは続きそうだった。

歩行者用の青い光が、車内の無機質な空間を鮮やかに染め上げる。
じりじりと感じる視線の中、橘の身体がどんどん寄ってくる。顎を少しだけ突き出して、でも最後は詩乃から動けと言っているようだ。

進め、と急かされているようなその光の下で、橘の瞳だけが深く、暗く、詩乃を捉えて離さない。

「はやくして」
「っ」

意味はもちろんわかる、でもそれを自分からするっていうのは、つまりさ、ねぇ、ずるいよ。


どうにでもなれ、という気持ちで、詩乃から唇を重ねて、一瞬にしてそれは深くなった。片方の手で後頭部を持たれて逃げ場がない。数秒重ねた後、橘はゆっくりと手と唇を離し、運転席に戻った。

人型のランプは赤に変わり、ちょうど目の前の大きな光も青くなったところだった。
道路標識まで操っているかのようなこの男の横顔を詩乃は見つめ、ぞくりと背筋に何かが走る。


「詩乃、可愛い」


アクセルを踏むと同時に、橘の左手が詩乃の右手を取った。
するりと絡められた指が、詩乃の膝の上に置かれた。


ねえ、もう、だめだ。
私、橘のこと好きだよ。

橘と、キスしたいの、私も。
橘にも私のこと、好きになって欲しいんだよ。


ああ、やっぱりショートパンツなんて履かなければ良かった。
重なって置かれた橘の手が素足の太ももに触れて、そこだけ熱いよ。