今夜は君の夜屑

 
 
 
  
「新田」

橘の声に顔を上げると、二つ先のモニターの奥から、橘が歩いてくるところだった。

今日は部長が休みだから早く帰ろう、という流れだったが、詩乃はもう少しだけ仕事を終わらせたくて残っており、他には誰もいなかった。

「なに?」

橘はそのまま歩いてきて、詩乃の隣で、机に軽く腰掛けた。
顔を合わせるのは、一週間ぶりだ。食堂で会ってから、あまり会社で見かけることもなかったし、詩乃も橘も連絡をしなかった。

キスもして、名前も呼んで、電話もして、それだけのことがあったのに、しばらくすれば何もなかったかのように振る舞えるのは、大人になったということだろうか。

「明日の夜」
「え?」
「…明日の夜、空いてる?」
「……空いてるけど…」

唐突な言葉に、詩乃は手を止めて橘を見た。
橘は目線を合わせ、反対側に置いていたらしい未開封の缶コーヒーを詩乃のマウスの隣に置いた。

「え?ありがとう」
「それ、俺が好きなやつ」
「そうなんだ?」

橘も同じものを買ってきたらしく、缶をぷしゅりと開けてぐいと飲んだ。橘の喉仏が上下するのを無意識に目で追ってから、詩乃も同じようにコーヒーを啜った。

十九時のオフィスはまだまだ残っている人の方が多い。
詩乃の部署には誰もいないものの、パーテーションで区切られた奥では少しのざわめきと人影が動いている。

「なんかあった?明日」

詩乃は缶コーヒーを片手に、マウスを操作して画面を閉じた。
どうせもう終わりにしようと思っていたところだった。

「…ワインとチーズが美味しい店があるんだって、いつもの駅に」
「……ふうん?」
「…新田、暇でしょ」
「ふ、なにその決めつけ」

橘が冗談を言う時の口調だったから、詩乃も同じように返した。
ワインは、橘とホテルにいたあの夜以来飲んでいない。なんとなく避けていた。

「十九時、行けそ?」
「…いいけど」

どういう意図があるのか、考えるのはやめた。どうせ考えたって分からない。
橘に視線を向けると、橘も詩乃を見ていた。
数秒見つめあって、どちらからともなく逸らした。
橘がコーヒーを啜る音が、少しだけ残っている。

「じゃあ、現地集合で」
「…わかった」

詩乃の返事を聞くと、橘はコーヒーを片手に去っていった。
しばらくその背中を目で追うも、橘は振り返らなかった。









「お疲れ」

店の情報だけが次の日、メッセージで送られてきた。
スクリーンショットを見るに、予約もしてくれていたらしい。

橘と今まで飲む時は、当日誘われることや店は適当に決めることが多かった。
ドアを押し開けて、店員に橘の名前を伝えると、奥の二人用の席に案内された。
橘がそこで待っていたらしく、詩乃を見て軽く手を上げた。

「うん、お疲れ」

席に着くと、テーブルに広げられていたメニューを橘が覗き込んだ。
ラミネート加工されたその紙には、おすすめ、との文字がシンプルに書かれていた。

「これが美味しいんだって」

ワインとチーズの店、と謳っているだけあって、種類は豊富だった。
その文字を追う過程で、紙を覗き込む橘と顔の距離が近くなる。
まつ毛がふわりと動くのを見て、詩乃は身体を思わず引いた。

「じゃあそれにする?」
「うん、他も合いそうなのいくつか頼もっか」
「ありがと」

飲んだことのない種類のワインをグラスでいくつか頼んだ。

飲みやすいものが多くて、飲んでみる?と橘に差し出されたグラスも気にせず口にした。流れ込んできた芳醇なワインの香りが、記憶の底にある、あの夜の断片を引き摺り出してくる。



ワインを何杯か飲んで、気づけば頬がほてってきた。

「あつい」
「ん?酔った?」
「まだいけると思うけど」

詩乃がそう言うと、橘の手がゆっくり伸びてきて、反応する間もなく、少しだけ乾燥した指が頬をさらりと撫でた。

「…ほっぺ、あつい」
「……でしょ」
「…赤いし」

橘も、きっと少し酔っていた。
照明が暗くても、頬の赤みは分かるらしい。

「…そうかも」

向かいに座っている橘の革靴が、詩乃のパンプスをコツンと触れた。
わざとかもしれない。そうでないかもしれない。

逃げようと思えば逃げられる距離だった。
詩乃も同じように、パンプスを動かして、橘の靴に当てた。

「…俺も、あつい」

橘の指は、詩乃の頬に置かれたままだった。
熱っぽい視線が、詩乃の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「…そうなの」
「……うん」

橘の骨ばった中指の腹が、熱を持った自分の肌を慈しむようになぞっていく。
それが心地よかった詩乃は、このままでいいと思う。

少しだけ冷たい指の温度を感じていたくて、そっと目を閉じた。
耳の奥で、自分の心臓がドクドクと不規則に波打つ音が聞こえた。