「隣、いい?」
風邪を引いたと言って、いつも一緒に昼を食べている真菜は休んでいた。
月曜日、食堂の窓側のカウンターからは気持ちの良い太陽が差し込んでいる。
ビルの中にある食堂だが、いくつかの企業が共同で使っている広いフロアなだけあって、知らない顔の方が圧倒的に多い。
黙々と弁当を食べている詩乃の隣の椅子が、引かれる音を立てた。
詩乃が返事をする前に、薄い茶色のコンビニの袋を下げて、橘が詩乃の隣に座った。
「もう座ってるじゃん」
「確かに。春田さんは?」
「風邪ひいたって」
「お大事に」
「私に言われても」
詩乃は苦笑しながら卵焼きを口に運んだ。
テンポよく進んでいく会話に、昨日の電話が嘘みたいに思えてくる。
橘がテーブルに置いたビニール袋からコンビニ弁当を取り出し、プラスチックの蓋を開けた瞬間、揚げ物の匂いと、逃げ場を与えられた熱い蒸気が微かに立ち昇った。
「何のお弁当?」
「なんか期間限定の、誰かとコラボしてるやつ」
「ふうん」
橘は律儀に手を合わせた後、唐揚げを掴んで頬張った。
弁当のサイズが、詩乃のものの倍くらいある。
「自分で作ってるの?」
「うん、今日は早く起きれたから」
「すごいね。美味しそ」
「橘は?いつもコンビニ?」
「うん、それか先輩と外出たり」
カウンター席で良かったと思う。目の前の食事と窓の外だけ見ていればいい。同じような高さのビルが立ち並ぶ景色はいつもと変わり映えしないが、口を動かしながら視線を送る。
「自炊はしないの?」
「あんまり料理得意じゃないんだよね」
「そうなんだ、意外」
「意外かな?」
「なんでもソツなくこなしそう」
友達だった時みたいな会話だ、と思ってから気づく。
友達だった、と過去形で思ったということは、今はそう思っていないということか。
「俺のも作ってよ」
「なんで?」
「手作り弁当、食べたい」
「なんで私が?」
彼氏でもないのに。
その言葉は思い浮かんだけれど、詩乃は口に出さなかった。
きっと今までだったら、違和感すら抱かずに言葉にしていた。
それを感じ取ったのか否か、橘はなにも言わなかった。勢いよく箸が動いているのが、視界の端に映る。
詩乃のアイボリーの弁当箱には、ブロッコリーと鶏胸肉の炒め物が残っている。
「…昨日は、お酒飲んでたの?」
「……飲んでない」
橘の黒いプラスチックの弁当は、まだ半分以上残っている。
「そうなんだ」
「うん」
昨日のことすら、無しにするつもり?
あれだけ、気持ちを乱しておいて。
「じゃあ、覚えてる?」
「…なにが」
誠実に友達でいたいと言っていたのは誰だった?
それなのにいきなり壊すようなことをして、どうして私ばかり、考えないといけないんだ。
頭の中、私でいっぱいになればいいのに。
橘のことで、私がそうであるように。
「話したこと」
「…覚えてるよ」
橘の箸が止まっていることには、詩乃は気づいていた。
けれどそれには気を止めない。詩乃は炒め物を口に運んでいく。
「…そっちはどうなの」
橘はぽつりと言った。小さい声だった。
詩乃は残っていたブロッコリーを口に運び、弁当箱の蓋を閉めた。
パチンという乾いた音が、今の二人の間に引かれた境界線みたいに鋭く響く。
いつもなら休憩時間は食堂で時間いっぱい過ごす。
詩乃は弁当箱をランチバッグに入れて、閉じた。
「…さあね」
まだ、橘の弁当は残っているね。
一人で、食べ終わるまで離れられないこの空間で、隣にいた私のことを考えて、思い出せばいいのだ、私のことを。
私は、そんな数百円で買った弁当のように、簡単に手に入らない。
「真尋」
詩乃は橘の名前を呼んだ。
衣服が擦れる音を立てるほどの勢いで、橘の首がこちらを向く。
詩乃は橘を見ずに、ランチバッグを持って椅子を引いた。
「なんてね」
それぞれのタイミングで休憩に入った人々がやってくる食堂は、話し声や喧騒が絶えない。詩乃の声は橘以外の耳には届かない。
もしちょっかいをかけよう、からかってやろうなんて軽い気持ちなら、手を引いて欲しい。そんなことはさせない。橘の思い通りになんてしてやるものか。
昨日の電話の後、脳内で何度も反芻してしまったあの気持ちを、橘だって体験すればいいのだ。
「じゃあね」
椅子が床を擦って、ギィ、と鳴った。
手に持ったランチバッグが、太ももに音もなく当たった。
そのまま橘の方には目を向けず、詩乃は食堂を出る。廊下のひんやりとした空気が、火照った頬をなぞる。
詩乃の指先には、じわりと汗が滲んでいる。
熱を持った頬と耳に、誰も気づかないでいて。
そして冗談だったのに、と言えますように。


