今夜は君の夜屑


 
 
 
 

やけに枕が硬くて不快で、寝心地が悪いな。


新田《にった》 詩乃《しの》は、そう思いながら薄目を開けると、まだ部屋は薄暗かった。
寝心地の悪さの原因は、不自然なほど反発の強いウレタンの塊だと分かる。家の枕ではない。

見慣れない天井に、パリッとした質感の布団が自分の上にかかっていることに違和感を覚えた。
ぼやける視界が次第にはっきりとして、布団から出た肩が寒くて、そこまで意識した時、詩乃は勢いよく目を見開いた。

静まり返った部屋に、空調の単純な唸り音だけが響いている。

視線が隣に落ちた瞬間、すべてを察した。

そこには、端正な顔をした男が、軽い寝息を立てて寝ていた。しかも、それは見覚えのある男だった。

「えっ、」

思わず漏れた自分の声は、思ったより小さく、かすれていた。
一度視線を外したものの、首だけ動かしてもう一度見た。


橘《たちばな》 真尋《まひろ》が、いる。
同期で、女に言い寄られても社内の女には手を出さない、誰にも靡かない、あの橘が?


天井に鏡があることや、部屋の雰囲気からここの場所はなんとなく推測できる。

再度隣を見て確認をする。
寝息を立てているのは、橘で間違いない。


上をむくと、ラブホテルにしか付いていないだろうベッドの真上の鏡に、橘が映っている。

布団から出た橘の膝下にも、肩にも、何も纏われていない。
そして、自分の体も同じだと分かっている。


ちょうど枕元にあったスマホで時間を確認すると、まだ朝の四時。
暗い部屋に急に光る白い光が、自分の顔だけを明るく照らす。

今日は金曜日で、まだ週末ではない。
平日から何をやってるんだ、と思いながら、音を立てないようにして、キングサイズのベッドを抜け出した。

枕元の水のペットボトルは、一本しか開いていなかった。

薄暗い部屋の中、下着をどうにか見つけて着けた。
顔を洗おうと洗面所に行くと、水垢の跡が残る鏡に、化粧すら落としてない自分の顔が映る。
そりゃそうだ、と詩乃はため息をついた。


大きい鏡に映る自分の姿が、なんだかみじめだ。
それを早く視界から消し去りたくて、とりあえず化粧を落とし、歯を磨いた。


可愛いと一目惚れした、出勤用のフレア素材のシンプルなブラウスは、床にくしゃりと投げ捨てられていて、少ししわになっていた。

指先でしわを伸ばそうとしてから、虚しさに襲われて諦める。
腕を通すと、微かに橘の体温の匂いが鼻をくすぐった。

それを音を立てないように着た。
橘は、軽い寝息をたててよく眠っていた。今起きないでほしいと心から思う。

自分のカバンの隣にあったゴミ箱に何気なく視線をやった。

無機質な黒いゴミ箱の底に転がっているティッシュの塊に紛れて、嫌に生々しい光沢を放ったものがチラリと覗いていた。
昨日の自分たちがしたことの証明を突きつけられていて、詩乃はそれから逃げるように、急いで目を逸らした。

このまま出ようかと思ったが、橘に会社に遅刻されては困る。
ベッド脇のパネルを操作し、一時間後に目覚ましをセットしておいた。

詩乃は、枕元にそっと札を置いて、指先が一瞬止まる。
こんなことをしても、なかったことにはならないのに。
フロントに先に出ると小声で電話をし、詩乃は橘を置いて、この空間を背にドアを閉めた。



「はぁ…なんで…」


自動ドアが開いた瞬間、鋭い早朝の冷気が、化粧を落としたばかりの剥き出しの肌を叩いた。

夜の色が残る空が、どこか青白くてくすんでいる。

始発が出てないこの時間。
タクシーに乗って帰ろうと、とりあえず大通りに向かう途中、思わず漏れた言葉。

雀の鳴き声がなんだか自分の行為を責め立てているようだ。
別にそういうことしたのがダメなんじゃない。処女だったわけでもない。
けれど、相手がとても問題なのだ。


「橘か……」

同じ会社の同期で、詩乃は広報部、橘は営業部。
気兼ねなく話せる、数少ない男友達だった。

それだけに、この関係が崩れるとは思ってなかった。今後気まずくなるかもしれない、と思うと、大通りまでの足取りも重くなる。

力なくパンプスを引きずって大通りに出ると、車も人も少なかった。

「あ、」

ちょうど良いタイミングでタクシーが通り、詩乃は手を挙げて止めた。

乗り込みながら自宅の簡単な位置を伝え、硬めの背もたれにもたれた。腰の奥に、久しぶりの鈍い痛みがじわりと広がった。


「昨日…確かイタリアンバルで…ワインを飲んで…?」

仕事終わりに橘から、飲みたいから付き合って、と連絡があったのがきっかけだったはずだ。

詩乃はその辺から、ぷつりぷつりとしか記憶はない。

詩乃も橘も酒はよく飲むが、こんなことになったのは勿論初めてだ。
あまり酒に酔って記憶を無くす、などということはなかったのだが、微かに痛むこめかみの奥と、何も思い出せない現実が、昨日の夜を物語っている。

思い出そうとすると、途中で途切れる。

タクシーの窓の外に流れていく景色を見つめながら、橘はどんな顔をしていたのか。どんなふうに触れられたのか。
そこまで考えて、首を振った。
何を思い出そうとしているんだ、私は。

どうか橘が、このことを綺麗さっぱり忘れていますように。どこかの知らない女と、事故を起こしてしまったんだと、思い込んでくれますように。

そう願いながら、視線は朝方の街と空に溶けていった。