「美咲、起きなさい」
一階から響くお母さんの声で、目をゆっくりと開ける。
まだ寝ぼけていて、頭の奥で「まだ寝たい……」と声がする。
布団の中で伸びをしながら、今日はどんな一日になるのかな、
とぼんやり考える。
けれど、考える前に、もう一度声が聞こえた。
「美咲、起きないと遅刻するわよ」
その声に小さくため息をつき、やっと重い身体を起こす。
毛布を手で払いながらベッドから降りると足元はひんやりとしていて、
朝の冷たさを感じた。
眠い目をこすりながら、制服をタンスから取り出す。
胸元まで伸びた黒髪をとかすのは毎朝の習慣で、ブラシの滑る音が
部屋の静寂を少しだけ破る。
髪を軽くアップにまとめ、無造作になりすぎないように整えた。
洗面所に立ち、蛇口から出る水で顔を洗う。
冷たい水が頬に触れるたびに、まだ半分夢の中の頭がすっと覚めていく。タオルで顔を拭き取り、化粧などはしない。
鏡に映る自分の顔はまだ寝ぼけたままの表情で、ほんの少し目が腫れて
いる。
時計を見ると、もう出る時間ギリギリ。
朝食を取る時間はなく、慌ただしく鞄を肩にかける。
「いってきます!」
と声を出して家を飛び出すと、背後から小さく
「いってらっしゃーい」
というお母さんの声が聞こえる。
その声に、ほんの少しだけ背中を押されるような安心感を覚えた。
玄関のドアを閉めると、朝の澄んだ空気が顔を撫でる。
まだ人通りの少ない道を歩き、今日もいつも通りの通学路だと
思いながら、靴底が地面に触れる感触を確かめる。
私が通う清蘭中学では自転車が禁止されているため、家が遠い私は
他の人より少し早く家を出る習慣がある。
いつもより少し早い時間帯だから、通学路にはまだ子どもたちも
少なく、遠くの交差点で信号待ちをする人影がちらほら見える程度だ。
空は淡い青に染まり、街路樹の葉先にはまだ朝露が残っている。
歩きながら、今日の授業のことや、放課後に莉愛と何をするかを考え、少し微笑む。
甘いものを食べに行く約束をしていたことを思い出すと自然に
胸が弾んだ。
「今日も、普通の日……だよね」
小声でそう呟きながらも、どこかで違和感を感じる自分がいる。
街のどこかに、見慣れない影や、何か不穏な気配が潜んでいるような
気がして、思わず背筋を伸ばす。
けれど、考えすぎだろうか――と思い直して、歩みを進める。
今日もなんてことない一日が始まる。
……そう思っていた。
まさか、私達の日常が一瞬で壊れてしまうなんて、誰も想像できなかっただろう。
校門をくぐった瞬間、予想外の衝撃が私を襲った。
「わっ!」
思わず声を上げてしまう。
飛びついてきたのは、親友の皆川莉愛だった。
にやにやといたずらっぽく笑う彼女の顔を見て、私はつい顔をしかめる。
「びっくりした?」
「もー、やめてよねー!!心臓止まるかと思った!」
笑いながら言う私に、莉愛はさらに得意げに笑った。
彼女といると、こうして些細なことでも楽しくなる。
息を整えながら、ふたりで靴箱へ向かう。
上靴に履き替えようとしたその時、莉愛がふと首を傾げた。
「あれ…?なんか……、人いなくない?」
確かに、目を凝らすと周りには誰もいない。
普段なら、朝の靴箱は声や足音であふれ、どこか騒がしいのに、
今は私達2人しか居ない。
辺りは妙に静かで、靴のゴム底が床に触れる音だけが響いていた。
「ほんとだ……。なんか不気味だね……」
小声で呟きながらも、私は肩をすくめ、気のせいだと自分をなだめる。莉愛は不安そうに周囲を見渡しながら、そっと私の腕に触れる。
いつもなら、こういうときもふたりで笑い飛ばすのに、今日は何かが
違った。
階段を上がると、3年生のフロアにたどり着いた。
やはり、普段の賑やかさはない。
教室のドアの前に立つと、少し胸の奥がざわつく。
それでも、私達のクラス、3−A のドアを開けると、いつもどおりの
景色が広がっていた。
友達の姿があり、教科書やノートが机に整然と並び、声を上げて
挨拶するクラスメイトたち。
「おはよー!」
「おはよう、美咲!」
ひとつひとつの挨拶に、私は自然に返す。
席につくと、安心感が少しだけ戻る――つもりだった。
だが、莉愛はすぐに駆け寄ってきて、目を大きく見開いた。
「ねぇ美咲…。やっぱおかしいよ。
今覗いたら、他のクラス誰もきてなかった……!」
不安げに呟く彼女を、私は軽く肩を叩いてなだめる。
「大丈夫だって、たぶんまだ早い時間だからだよ」
そう言いながらも、私自身、胸の奥に小さな違和感と不安を抱えていた。教室の中は平穏に見えるのに、学校全体が妙に静まり返っている。何か、いつもとは違う――そんな予感が、じわじわと心を締めつけるのを感じた。
「大丈夫だよ……」
そう、莉愛と自分に言い聞かせていたその瞬間だった。
教室の静けさを切り裂くように、ジジジッ――と、ノイズ混じりの
チャイムが鳴り響いた。
いつもの授業開始のチャイムとは明らかに違う、機械的で冷たい音。
耳に残る不快な振動が、胸の奥に小さな不安を生み出す。
周囲を見ると、クラスメイトたちは皆、不思議そうに首をかしげている。
もちろん、莉愛も大きな瞳を見開き、眉を寄せていた。
チャイムが鳴り終わると、教室のスピーカーから低く、棒読みの女性の声が響いた。
声には抑揚も温かみもなく、ただ冷たく事務的で、まるでAIが喋って
いるかのようだった。
【生徒の…いえ、3−Aの皆様、おはようございます。
これからカクレアイゲームを開始します。3分以内に隠れてください。
今回の発見者は1名です。繰り返します――】
教室の空気が一瞬で張り詰める。
頭の中が真っ白になり、何をどう考えればいいのか、思考が全く追いつかない。
声を出そうとしても、喉が固まってうまく言葉が出せない。
「な、何…?これ…」
思わず漏れた自分の声は、かすかに震えていた。
目の前の教室や友達の姿が、急に遠くて現実味のないものに思えた。
どうしてかは分からない――ただ、恐怖が全身を駆け巡る。
そんな私を見て、莉愛がそっと肩に手を置いた。
「美咲、大丈夫……ね? 隠れればいいんだよ、ただ隠れれば……」
その声に、恐怖と不安の中に、かすかな安心が混じる。
けれど同時に、頭の片隅で警告が響く――これは、ただのゲームでは
済まない。
何か危険なものが始まろうとしている、と。
私は深呼吸をし、莉愛の手を握り返した。
「う、うん……」
静かな教室の中、刻々と残り時間が減っていく。
3分後に何が待ち受けているのか、まだ誰も知らない。
「こっち、早く……!」
莉愛の声に促され、私たちは必死に教室の隅にある掃除用具入れの
ロッカーへと滑り込んだ。
狭い空間に身を縮め、重なり合うようにして座る。
普段なら、こんな狭くて埃っぽい場所なんて絶対に嫌だと思うはず
なのに――今は違った。
安全だと信じたい、ただそれだけだった。
息を殺し、手をぎゅっと握りしめる。
肩が震えるのは恐怖のせいだけではなく、莉愛の手の温かさも伝わっているからかもしれない。
時間は無情にも進んでいく。10秒、20秒……。
何も起きない。
息を整えようとするけれど、耳に残る心臓の音がやけに大きく感じられる。
「……美咲、大丈夫?」
莉愛の囁きに、小さく頷く。
しかし、空気を切り裂くように、乾いた声が聞こえた。
「なんだ、なんも起きねーじゃん。」
カーテンの後ろに隠れていた佐倉望くんだった。
彼は安堵したように笑い、まるで私たちをからかうかのように肩を
すくめた。
その瞬間、教室の緊張は一気に緩み、周囲のクラスメイトたちも次々と
姿を現す。
「なーんだ、びびったー!」
「ったく、どんなイタズラだよ〜〜!」
皆が安堵の笑いを漏らす。
私と莉愛も思わず、「なーんだ」と笑いながらロッカーから出ようと
した――その時だった。
――ジジジッ……
あの気味の悪いチャイムが、再び教室中に響き渡る。
先ほどの冗談の空気は一瞬で凍りつく。
誰もが動きを止め、引きつった笑みを浮かべた。
心臓が喉元まで上がってくる感覚。
恐怖の波が教室を支配する。
チャイムが止まると、スピーカーから低く、しかし朗らかで人間らしい声が流れた。
先ほどの棒読みの無機質な声とは違う。
【それでは、スタートです!】
その声は暗いというよりも、楽しげで、朗らかで――どこか底知れぬ
不気味さを孕んでいた。
笑い声のように響くその声に、背筋が凍る。
「……な、なにこれ……」
莉愛の手が、私の手を強く握る。
その時、廊下の奥から微かに足音のようなものが聞こえた気がした。
息を殺し、息を潜める。
放送が終わって、ほんの数秒後。
誰かが小さく、震える声で言った。
「ね、ねぇ……なんか、ミシミシ音しない……?」
その一言で、教室の空気が凍りついた。
全員が一斉にドアの方を見る。
確かに――廊下の奥から、何かがゆっくりと、
床板を踏みしめるような、
「ミシ…ミシ…」という重い音が近づいてくる。
誰も何も言わない。
次の瞬間、まるで合図でもあったかのように、全員が慌てて元の隠れ場
所へ駆け戻った。
椅子が小さく軋み、窓のカーテンが揺れる。
息を殺したまま、私は莉愛と一緒に再び掃除用具入れのロッカーの中へ
身を潜めた。
扉をそっと閉め、ちょうど目線の高さにある小さな隙間から、
教室の様子をうかがう。
音ひとつ立てたくなくて、呼吸すら浅くなる。
――シーン。
教室は異様な静けさに包まれていた。
時計の秒針の音が、やけに大きく耳に響く。
息を殺しながらも、誰もがこの空気の中で確かに震えているのがわかる。
その時だった。
私が莉愛の方を見ようとした瞬間――
ガララララッ!!!
教室のドアが、勢いよく開いた。
バッと、全員の視線が音の方向へ向く。
空気がピンと張り詰め、時間が止まったように感じた。
莉愛の方に目を向けると、彼女は涙を浮かべ、ガタガタと肩を震わせて
いた。
「どうしたの……?」
小さな声で尋ねると、莉愛は何かを言いたげに口をパクパクとさせ、
震える指で――私の背後を指さした。
ゆっくり、恐る恐る、首を回す。
狭い隙間の向こう、教室の中央。
そこにいた“それ”を見た瞬間、
全身の血の気が一気に引いた。
言葉では言い表せない“ナニか”。
赤、青、黄色――それぞれの色の鼻をつけたピエロが、
それぞれ異なる武器を携えて、
ゆっくりと、楽しげに教室を徘徊していた。
赤い鼻のピエロは、血に濡れたナタを。
青い鼻のピエロは、唸るチェーンソーを。
黄色い鼻のピエロは、巨大なハンマーを。
どの顔も、真っ白な仮面にニタニタと笑ったピエロのペイント。
だが――その目の奥だけは、笑っていなかった。
息をするたびに、胸が痛い。
音を立てたら、気づかれる。
心臓の音すら聞かれてしまう気がして、呼吸を止めた。
腰が抜けそうになる。
もし莉愛が腕を支えてくれていなかったら、私は確実に崩れ落ち、
音を立ててしまっていただろう。
……そのときだった。
ガタッ。
教卓の方から、はっきりと何かが倒れる音がした。
あそこには――ギャル系のグループとつるんでいた、小泉羽菜さんが
隠れていたはず。
ピエロたちの頭が、同時にその音の方向を向く。
赤、青、黄――それぞれ笑顔を貼りつけたピエロが、
ゆっくりとそちらへと歩き出した。
逃げて――!
心の中で叫ぶ。
けれど、声にはならない。
喉が張り付いて、言葉が一音も出ない。
「い゙やぁぁぁぁぁぁーーーーーーっ!!!!!」
羽菜の絶叫が、教室中に響いた。
その直後、ビチャッという、液体が飛び散るような音。
誰も動けない。
誰も叫べない。
ただ、その音が教室に響き渡り――そして、沈黙が戻った。
恐怖で喉が焼ける。
何もできないまま私はただ、隣で震える莉愛の手を必死に握りしめていた。
嫌な予感がしていた。
胸の奥がざわざわと波打ち、鼓動の速さがどんどん増していく。
呼吸は浅く、熱い。
まるで肺の中の空気までもが恐怖で焦げていくようだった。
汗が首筋を伝い、制服の襟元を濡らす。
手は震え、莉愛の手を握る力も入らない。
それでも――見なければ、と思った。
恐怖で動かなくなった脳を必死に動かし、
私は、わずかな隙間から教室を覗いた。
そして、見てしまった。
床に、何かが転がっていた。
見慣れた制服のスカート。
染みだした赤い色。
そして、そのすぐ隣には――
腰から上の胴体と下半身が、あり得ない距離に離れて転がっていた。
それは、羽菜だったもの。
「っ――!!!」
喉の奥で悲鳴が弾けたが、声に出したら最後、次は自分の番だと
直感した。
舌を噛みそうなほど唇を強く噛みしめ、私は必死に、声を飲み込んだ。
体の奥が、冷たい。
全身の血が一気に引いていく。
視界がぐらぐら揺れて、頭が真っ白になる。
私の肩を支えていた莉愛が、それを見た瞬間――ひゅっと息を吸い、
そのまま崩れ落ちるようにして座り込んでしまった。
ガシャッ。
金属のバケツが倒れるような音。
ただそれだけの音が、世界を終わらせる合図のように響いた。
ゆっくりとチェーンソーを持った青い鼻のピエロがこちらを向いた。
ギギギ……と、マスクの中で首をかしげる。
その笑顔は描かれたものなのに、まるで本物のように楽しげだった。
チェーンソーが低く唸る。
ピエロの靴が、ひとつ、床を踏み鳴らす。
あと数歩。
その手が、ゆっくりと掃除用具入れのドアノブに触れた――
その瞬間。
ジジッ……とノイズ混じりのチャイムが鳴った。
【笑鬼さんは殺すのをやめてください。
次のカクレアイはお昼の12時44分に開始されます。
発見者は、3名。皆さん――頑張って、殺されてください。】
教室の空気が凍ったまま、その放送だけが静かに流れていく。
機械的で、感情のない女の声。
それなのに、ひどく楽しそうに聞こえた。
青鼻のピエロは、その言葉を聞くと、ドアノブから手を離した。
一拍の静止。
そしてそのまま何事もなかったかのようにチェーンソーを肩に担ぎ、
ゆっくりと教室を出ていった。
ガチャリとドアが閉まる音。
残されたのは、沈黙と、血の匂いだけだった。
――でも、誰も動けなかった。
ピエロが出ていったのに、息をすることすら、まだ怖かった。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
隣では、莉愛が小刻みに震えながら、口を押さえている。
時間が止まったみたいだった。
けれど、時計の針は確かに進んでいる。
次の“12時44分”へと――。
ふと、誰かの足音がした。
キュッ、キュッ……。
その音だけが、異様なほど大きく響く。
ふらふらと、糸の切れた操り人形のような足取りで歩いてきたのは――
羽菜と仲が良かった地雨叶(ちう かなう)さんだった。
顔色は真っ白で、瞳は焦点を失っている。
それでも彼女は、何かに導かれるようにまっすぐ教卓の方へ歩き、
血の海の中で倒れている“羽菜”の元にたどり着いた。
「はな……ちゃん……?」
掠れた声で、そう呟いた。
そして、制服のスカートが真っ赤に染まるのも構わずに、
切り離された羽菜の上半身にすがりついた。
「うそ……うそだよね……? ねぇ羽菜ちゃん、起きてよ……
お願いだから……っ!」
泣き声が、教室の中にぽつりと落ちた。
その声は、まるで何かが崩れる合図のように響いた。
誰かが鼻をすする音を立てた。
そしてまた一人、また一人と、隠れていた生徒たちが震える手で
カーテンの裏や机の下から這い出してくる。
目を覆う子、口を押えて泣き崩れる子、信じられないように羽菜の方を
見つめて立ち尽くす子。
――まるで、地獄に迷い込んだようだった。
私も、莉愛と一緒に掃除用具入れから出た。
足が鉛みたいに重くて、思うように動かない。
視界の先には、さっきまで
「変なイタズラだね」と笑っていた羽菜の、見るも無惨な姿。
床に広がった赤が、光を反射してどろりと黒ずんでいる。
鉄のような、生ぬるい匂いが鼻を突いた。
教室の床を染めるその色が、じわじわと靴の先に近づいてくるような
錯覚がした。
「……あ……ぁ……」
言葉にならない声が漏れた。
気づけば、私は呆然とその光景を見つめていた。
現実味がなかった。
夢であってほしいのに、鼻にこびりつく血の匂いがそれを否定する。
喉の奥が熱くなった。
視界が滲み、呼吸が苦しい。
次の瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきた。
「うぇ……っ……!」
思わず口元を押さえてしゃがみ込む。
胃がひっくり返るような感覚。
目の前がチカチカして、涙が勝手にあふれ出る。
「み、美咲っ、大丈夫……!?」
莉愛が焦ったように私の背中をさすった。
その手の温かさが、かろうじて私を現実に繋ぎとめてくれた。
なんとか吐くのはこらえたけど、震えは止まらない。
歯がカチカチと鳴る音が、自分でもはっきり聞こえる。
教室の中では、まだ誰かがすすり泣いていた。
窓の外では、いつもと変わらない青空が広がっている。
だけど、その空が、今はどうしようもなく遠く感じた。
もう――日常なんて、どこにもなかった。
その時だった。
すすり泣く声と、血の匂いが充満する教室の中で――
ひとり、静かに立ち上がる影があった。
星宮天音ちゃん。
学級委員で、誰よりも冷静で、誰よりも皆に信頼されている彼女。
その目の前には、真っ赤に染まった教卓。
そこに立った彼女の姿は、まるで絶望の海の中に咲いた白百合のように
見えた。
自然と皆の視線が天音に集まる。
嗚咽も、震える声も、少しずつ静まっていった。
天音は、血の滴る教卓に両手を置き、一度だけ深く息を吸い込むと、
はっきりとした声で言った。
「……皆、今は9時40分。次のゲームまで、あと3時間もない。」
その声は驚くほど落ち着いていた。
震えひとつ見せず、冷静に状況を整理していく。
「今のうちに購買で食料を確保しておくべきだと思う。
教室から出てはいけないなんて指示はされていないし、
“学校内なら安全”という意味なんだと思うわ。
それに……、小泉さんも、このままじゃ可哀想よ。」
静寂の中で、彼女の声だけが澄んで響いた。
その瞬間、どうすればいいか分からず、ただ震えていた私の中に、
小さな“軸”のようなものができた気がした。
あぁ、この人は強い――そう思った。
私たちは天音の指示に従い、
羽菜の身体――いや、“羽菜だったもの”をそっと持ち上げた。
誰も言葉を発しなかった。
布を通して伝わるその重みと冷たさが、現実を突きつけてきた。
隣のB組へと運び込み、机を並べてベッドのようにし、顔と切断面が
見えないようにタオルを掛ける。
手を合わせた時、血の匂いとチョークの粉の匂いが混ざって、
吐き気を誘うような空気が漂った。
――「どうか次は、誰も死にませんように。」
誰が言ったのか分からないその一言に、全員の心が一瞬、沈黙した。
それから、私と莉愛は購買へ向かった。
廊下を歩くたび、靴の裏がキュッと鳴る。
それが血を踏んでいるような錯覚を起こさせて、気持ち悪かった。
3−Aは全員で27人。
そして―― 一人減って、今は26人。
廊下を歩きながら、私は考える。
あのピエロは何?
どうしてこんなことになってるの?
カクレアイって、何?
頭の中がぐちゃぐちゃになって、考えるたびに現実感が薄れていく。
そんな時、ふと隣の莉愛が小さく息を吐いた。
涙の跡が残る頬をぬぐいながら、私は彼女にそっと声をかけた。
「莉愛……大丈夫……?」
「……大丈夫、って言ったら嘘になる。でも……美咲がいるから、
なんとか……。」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
「そっか……」
としか返せず、私はそっと、彼女の手を握った。
指先が冷たい。
でも、その冷たさが“生きてる”証みたいで、離せなかった。
窓の外を見上げると、
青空の下で、サラリーマン風の男性が足早に歩いているのが見えた。
……当たり前の日常。
あの人たちは、何も知らない。
この学校の中で、こんなことが起きてるなんて、誰も。
その現実に触れた瞬間、私の心に、ほんの少しだけ希望が戻ってきた。
「ねぇ、莉愛……これ、警察に言ったら助けてもらえるかな?」
私がそう言うと、莉愛は一瞬ぽかんとした顔をして――次の瞬間、
ぱっと顔を輝かせた。
「え……そうじゃん! そうだよ!!
スマホがある! 110だっけ? なんで気づかなかったんだろう!」
涙の跡が残る顔に、笑顔が戻った。
キラキラと、希望に満ちた表情。
震える手でスマホを取り出し、ロックを解除しながら、
「きっとこれで助かるよ!」と嬉しそうに笑った。
……まさか、そのわずかな希望すらも、残酷に踏みつぶされるなんて、
その時の私達は、まだ知らなかった。
耳にスマホを当てた莉愛の明るい笑顔は、数秒経つごとに
曇っていった。
はじめは、電波が悪いだけだと思っていたのだろう。
けれど、耳に押し当てた手がじわりと震えはじめ、唇が小さく震えた。
「……繋がんない。繋がんないよ!!!」
震える声でそう叫ぶと、莉愛はスマホを耳から離し、画面を何度も
タップした。
「嘘!?私がかける!」
私は慌ててスカートのポケットからスマホを取り出した。
手が汗で滑る。
受話器のアイコンをタップし、震える指で「1」「1」「0」と
打ち込む。
通話ボタンを押すと、“トゥルル…”と呼び出し音が鳴った。
……が。
――ブツッ。
次の瞬間、嫌な音がして、画面が一瞬で真っ暗になった。
「……え? なにこれ……なんで!?」
何度もタップしても反応しない。
電源ボタンを押しても、画面は光らない。
まるで、スマホそのものが“死んだ”みたいに。
心臓が早鐘を打つ。喉の奥が焼けつく。
最後の希望さえも打ち砕かれた私は、パニックになった。
「なに? なんで!? なんでみんな冷静なの!?
人が……人が死んでるんだよっ!? おかしいと思わないの!?
逃げようと思わないの!? ねぇ、なんでっ!? 早く逃げようよ!!
早くっ……! 殺されちゃうよ!!!! 莉愛ぁ!! ねぇ動いてよ!!!
なんで? なんで誰も動かないの!?!?」
叫ぶ声が、廊下に反響して自分の耳に返ってくる。
私は声を枯らして叫んだ。
でも――誰も動かない。
クラスメイトたちは、立ったまま、ぼんやりと私を見ている。
私がひたすら叫び続け、喉が枯れかけてきた頃、狛江南くんが
ぼんやりと私を見つめていたその目から焦りを取り戻したように、
慌てて駆け寄ってきた。
「……藤森落ち着け!」
彼の声は低く、しかしどこか確かな優しさを含んでいた。
私はまだ叫びたい衝動を抑えきれずに震える手で胸を押さえていたが、
南くんは迷わず私の背中に手を回し、しっかりと支えてくれる。
彼の手のぬくもりが、冷たい恐怖の渦に包まれた私の心に、わずかに
安心を注いだ。
「大丈夫だ。絶対藤森は死なせない。」
彼の声は穏やかで、少しだけ震えていたかもしれない。
けれどその声に、私は自然と耳を傾けずにはいられなかった。
その瞬間、莉愛も私の前に現れた。
顔にはまだ恐怖の影が残っていたけれど、私を見つめる瞳は
揺らいでいなかった。
両手で私の腕を握り、優しく力を込めて落ち着かせようとしてくれる。
「美咲、大丈夫だよぉ…!ごめん、ごめんね。
不安煽るようなことばっかしちゃってた。美咲だって怖いよね。
大丈夫、大丈夫だから……!」
その言葉に、私の全身にようやく力が戻り始めた。
私は深く息を吸い込み、涙で視界がにじむのを感じながらも、
必死に震える声で答えた。
「……二人とも、ごめん。私、どうかしてた……。」
南くんは首を横に振り、微笑みを浮かべながら言った。
「いや、藤森も無理すんな。こんな状況なんだから、
パニクるのは当然だろ。だから……何かあったら、俺を頼れ。」
その言葉の端々に、優しさと覚悟が混ざっているのが伝わった。
私は胸がいっぱいになり、言葉にならない感謝で震えた。
次に莉愛も、少し照れくさそうに笑いながら、
でも真剣な眼差しで言った。
「わっ、私のことも頼ってね?私、自分で言うのもなんだけど、
美咲の一番の親友だと思ってるから!!!!」
その強引さと、でも真っ直ぐな優しさに、私は思わず笑ってしまった。
肩の力が抜け、ようやく涙をこらえることもやめ、ぽろぽろと頬を
伝う。二人の存在が、胸の奥に暖かく染み込む。
「……うん。二人とも、本当にありがとう」
そう言ったとき、廊下全体の空気が少しずつ変わるのを感じた。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出すように、
周りのクラスメイトたちもまた歩き出した。
私の心の中で、恐怖と混乱の渦はまだ消えていないけれど、
二人の存在があれば、少なくとも一歩を踏み出せる——そう思えた。
どれだけ絶望的な状況でも、誰かがそばにいてくれるだけで、
心は確かに救われるのだと、体中で実感していた。
と、その時だった。先頭を歩いていた天音ちゃんが、
ゆっくりと私たちのいる列の後ろまでやってきた。
彼女の顔には少し疲れと戸惑いが混ざった表情があり、眉は下がり、
口元はぎこちなく笑おうとしていた。私たちの間に立つと、静かに、
でもはっきりとした声で話しかけてきた。
「藤森さん……さっきは声をかけることもできなくて、ごめんなさい。私も……軽いパニックになっちゃって、藤森さんのことを気にかけて
あげられなかった」
その言葉に、一瞬胸がぎゅっと締め付けられた。
けれど、私は咄嗟に手を振りながら笑顔を作った。
「そんなの全然……!皆がまともでいられるのは星宮さんのおかげ
だよ……!本当にありがとう……。でも、一人で抱えすぎないでね。
同じクラスメイトなんだし、助け合っていこう?」
それは、紛れもなく私の本心だった。
あんな恐ろしい状況で、ひとりで抱え込む必要なんてない。
恐怖や不安は、分け合えば少し軽くなるのだから。
天音ちゃんの目に、ぽろりと涙が光った。
「……藤森さん、ありがとう。その言葉で、どれだけ救われるか……」
彼女はいつもどんなときでも、責任感が強くて、クラス全員のことを
考えすぎてしまうタイプだ。
だから、きっと自分の恐怖を押し込めて必死に耐えていたのだろう。
その瞬間、自然に笑顔がこぼれた。
「あ、私のこと、藤森じゃなくて美咲って呼んで?
そのほうが慣れてるし!」
莉愛も負けじと手を振りながら言った。
「私も私も!気軽に莉愛〜って呼んで!」
呼び方なんて、この状況ではどうでもいいことだったかもしれない。
それでも、私は普通の会話がしたかった。
恐怖や絶望の中で、ほんの少しでも日常の感覚を取り戻したかった。
「本当?じゃあ、美咲と莉愛も、私のことは天音って呼んで?」
「いいの?やった!」
三人で笑い合ったその瞬間、
私は胸の奥の力が少し抜けて、ほっと息をついた。
まるで、重くて冷たい空気の中に小さな光が差し込んだような
感覚だった。
雑談は自然に続いた。
小さな笑い声や、軽い冗談が飛び交う。
恐怖で張り詰めた神経はまだ少し残っているけれど、その瞬間だけは、
確かに「いつも通りの教室の空気」が戻ってきたように感じた。
気づけば、私たちはいつの間にか購買に到着していた。
店先には、普段と変わらない景色が広がっている。
色とりどりのパッケージ、商品棚の整列したライン、そして窓から
差し込む柔らかい光。
その光景に、私は小さな安堵を覚えた。
恐怖と絶望の中でも、人はこうして一歩ずつ、日常に戻ることができる
——そう思えた。
購買で、天音ちゃんは別のクラスメイトに声をかけられると、
軽く手を振りながら私たちのもとを離れていった。
「美咲、何にする?私はおにぎりにしよっかなぁ。
次いつ取りに来れるかわかんないし、4個くらい持ってっちゃお〜」
莉愛は小さく肩をすくめながら、少し照れたように笑う。
その表情を見て、思わずこちらも笑顔になった。
「私はパンかなぁ〜。」
私はそう言いながら、陳列棚を見渡した。
どれも普段なら気軽に手に取れるものなのに、今日の出来事のせいか、
ひとつひとつ慎重に手を伸ばしてしまう自分がいた。
結局、私はサンドイッチと緑茶を一つずつ手に取った。
手のひらに重みを感じながら、少しずつ日常の感覚が戻ってくるような
気がした。
一方、莉愛はおにぎりコーナーに行き、明太子のおにぎりとエビマヨの
おにぎりを抱えて戻ってきた。
両手いっぱいのおにぎりを見て、思わず「食いしん坊だ〜〜」と
声をかけると、彼女はくすっと笑った。
「これ、皆お金払ってないけど良いのかな……」
莉愛が小さく呟く。その声には、少しだけ不安が混じっていた。
「確かに……。一応払っておく?」
私は頷きながら、レジを見た。
今日の混乱で、誰もお金のことを気にしていないけれど、
やっぱりちゃんとしないと落ち着かない。
「そうしよ!」
莉愛も小さく頷く。
二人でレジ台に代金を置き、私たちはそっと購買を後にした。
すでにほとんどのクラスメイトは教室に到着しているようで、廊下を
歩くと、前方のA組からざわめき声が聞こえてきた。
誰かが笑ったり、何かを囁いたりする声。
それは、いつもより落ち着かないざわめきだった。
「どうしたんだろ……?」
思わず呟きながら、私は恐る恐る教室の扉を押し開けた。
中に入ると、黒板の前に人だかりができていた。
ざわめきの中心をかき分けるようにして前に進むと、黒板には
見慣れない、流れるような流麗な文字が、ずらりと並んでいた。
手書きの文字は、どこか冷たく、そして意図的に整えられているように
見えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
【カクレアイゲーム】
参加者の皆様は学校内の何処かに隠れてください。
① 笑鬼さんは決められた数の参加者を殺してください。
② 参加者の皆様は笑鬼さんに見つかると殺されます。
③ このゲームは、3−Aの皆様が✗✗人になるまで続きます。
④ 3−Aの皆様の中にワルモノがいます。
⑤ ワルモノを見つけ出し、見事退治した勇者様には特別に誰か一人と
このゲームをクリアする権利が与えられます。
⑥ このゲームは途中リタイア不可となっております。
⚠️笑鬼さんに見つかってしまった参加者の方は、殺される前に逃げる
ことをオススメいたします。
――――――――――――――――――――――――――――――――
肝心な③番の人数の部分は、故意的に誰かが消したかのように
ぐちゃぐちゃになっていて、読み取ることができなくなっていた。
黒板に書かれたその文字を目にした瞬間、背筋が凍るような感覚が
走った。
心臓がどくんと大きく跳ね、言葉を失いそうになる。
「なんだよ、これ……」
南くんが隣で呟いた。
彼も黒板の文字をじっと見つめ、眉をひそめている。
「こんなルール、理不尽にもほどがあるでしょ……」
莉愛も小さく呟いた。
「ワルモノって誰のことだ……?なんでワルモノなんだ?」
南くんの声には不安が滲んでいる。
でも、怖いのはそこじゃない。
私は、黒板に書かれた文章の量に釘付けになった。
「こんなの……書く時間なんか無かったはず……」
そう。
私たちが購買に行って戻ってきたのは、多く見積もっても10分程度。
それに加え、この一本道の廊下。
すれ違った人なんか一人もいなかった。
この量の文章を、粗くもない、むしろ丁寧に整えられた文字で、
チョークで一気に書き上げる。
しかも、私たちが通り過ぎる前に、その場を去らなければならない。
たった10分で……?
物理的に不可能だ。
胸の奥で、何かがぎゅっと締め付けられる。
背後からはざわめきと小さな動揺の声が聞こえ、私の手のひらは
じんわりと汗で湿っていく。
心臓の鼓動が耳元で響くように感じられ、喉が乾いた。
「これ……一体、誰が……」
言葉が途中で止まり、頭の中がぐるぐると回る。
理屈では説明できない恐怖。
誰かの悪意、計算された罠、そして……まだ誰も理解していないこの
状況の異常さ。
南くんが私の肩に手を置き、そっと押してくれた。
「藤森……落ち着け。とにかく、今は……考えすぎるな」
莉愛も私の隣に寄り添い、小さく頷いている。
その温もりが、かすかな安心感をくれる。
でも、安心と恐怖は、紙一重だった。
黒板に書かれた文字は、ただの文章ではなく、まるで私たちを監視し、
試すために意図的に置かれた標的のように見えた。
「もうヤダ!!誰か助けてよぉーッ!!!!!!」
その叫び声は、教室の端から端まで響き渡った。
声の主は、このゲームが始まってからずっと一人でいる、
佐倉恋雪ちゃんだった。
恋雪ちゃんの甲高い声は単なる泣き声ではなく、心の奥底から
絞り出された絶望そのもの。
彼女の声は瞬く間に教室中の空気を変えた。
その瞬間、私の体にも冷たい衝撃が走る。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、視界が一瞬、揺れるようにぼやけた。
南くんも、握りしめた拳を小さく震わせている。
莉愛は私の手をぎゅっと握りしめたまま、言葉もなく、目だけで何かを
訴えていた。
教室のあちこちから、小さな声が重なり始めた。
「死にたくないよ……」
「どうしよう、誰か……!」
「ワルモノって誰だよ…?お前か!?」
「もうやめてよぉ……!」
すすり泣く声、嗚咽、そして誰かを責める声。
それらが渾然一体となり、教室全体を不安と恐怖の渦で包み込む。
恐怖は伝染する、と聞いたことがあるけれど、まさにその通りだった。
目の前のクラスメイトたちはただ立っているだけでも、恐怖で手足が
震えているのが分かる。
呼吸が浅く、声がうわずり、視線が定まらない。
恋雪ちゃんの泣き叫ぶ姿を見て、私は無意識に息を詰めた。
心臓が早鐘のように打ち、手のひらの汗がじっとりとにじむ。
教室全体の不安は収まらない。
むしろ広がっていく一方だ。
誰かが泣き、誰かが声を震わせ、誰かが硬直したまま動けない。
まるで恐怖という見えない波が、私たちの心に押し寄せ、逃げ場を
奪っていく。
その波の中心に、佐川恋雪ちゃんの絶望の叫びがある。
教室の空気は、もはや日常の教室とは似ても似つかないものに
変わっていた。
壁にかかる時計の針の音さえ、恐怖を煽るかのように鋭く響く。
私は、思わず声を上げたくなる衝動に駆られた。
けれど、言葉にしたところで、恐怖が消えるわけではない。
恐怖は伝染する。
そして今、この教室のほぼ全員が、その恐怖の渦の中にいる――。
その時、近くにいた佐倉望くんが、突然南くんの胸ぐらを掴んだ。
「っ……!」
南くんは思わず目を見開き、固まった。
望くんの手が胸に食い込み、指先が制服の生地を押し込む感触が
伝わる。
私は慌てて望くんの手首を握り、必死で引っ張った。
「やめて、望くん!離して!」
しかし、望くんの力は想像以上で、手首を掴む私の力などまるで
及ばない。
望くんは胸ぐらを握ったまま、南くんの顔に鼻先が触れそうな距離まで
ぐっと近づき、低く、しかし震えるような声で言った。
「ワルモノ…って、お前じゃないよな?」
その瞳には恐怖と疑念が入り混じっている。
「は……っ?」
南くんは顔をしかめ、言葉を発することもできず、ただその場で
硬直していた。
「ちょっ!やめなよ!」
と莉愛が必死に望くんの背中を引っ張る。
「手、離してよ!!」
と私も声を荒げて引っ張るが、望くんの力は強く、びくともしない。
息が詰まるような緊張感が教室に充満する。
「お前…いつも一人でいるよなぁ……? 怪しいんだよ。
目つきも悪りーしよォ!」
望くんの声は怒りと恐怖が混ざり合い、強い決意を帯びている。
南くんの顔が僅かに青ざめ、思わず目を細めるが、言葉は出ない。
その瞬間、望くんは勢いよく南くんの頬を殴った。
「ぐっ……!」
南くんはその衝撃で地面に崩れ落ち、制服の袖が擦れて小さな音を
立てる。
私は思わず駆け寄り、叫んだ。
「大丈夫!?……っ、血が…!」
南くんの鼻から血がじわりと滲んでいるのが見える。
莉愛もすぐに駆け寄り、南くんを支えながら顔を覗き込む。
南くんは表情を変えずに、しかしわずかに肩を震わせながら、
袖で鼻血を拭った。
「……ああ、大丈夫だ。」
その声は落ち着いているが、手の微かな震えから、心中の動揺が
伝わってくる。
「南くんがワルモノだって決まったわけじゃないのに殴るなんて…!
あんたこそワルモノじゃん!!!」
と莉愛が叫び、拳を握りしめる。
私も思わず声を荒げる。
「そうだよ!根拠もないのに殴るなんて、どういうつもりなの!?」
望くんは私たちを鋭く睨みつけ、唇を引き結んだまま吐き捨てるように
言った。
「はぁ?俺は死にたくねーんだよ!怪しいやつは全員殺す。」
その瞳には冷たい光が宿っており、誰も逆らえない迫力があった。
言い終わると、望くんは踵を返し、そのまま教室を出ていき、教室には
重苦しい沈黙が訪れた。
望くんの去った後、空気は一気に張りつめ、誰も声を出せなかった。
南くんはわずかに震えながらも立ち上がり、制服の袖で鼻を押さえた
まま、無表情を装っている。
しかし、肩の微かな震えや息の乱れが、内心の動揺を物語っていた。
教室のあちこちでは、さっきまで泣き叫んでいた生徒たちが互いに
目を合わせ、不安そうにざわめいている。
誰も次に何が起こるか分からず、恐怖に押しつぶされそうに
なりながら、身を固くしている。
次に何が起こるか、誰も予想できない恐怖が、ゆっくりと、
しかし確実に私たちの心を締め付けていた。
「ちょっと水道行ってくるね」
そう莉愛に一声かけ、まだ少し動揺を隠しきれない様子の南くんを
連れて、私は教室を出た。
廊下は静まり返っていて、先ほどまでのざわめきが嘘のように
消えていた。
どこか遠くで風が窓を揺らす音だけが響く。
水道の前に立つと蛇口をひねり、冷たい水をハンカチに染み込ませる。
流れ出る水の音がやけに大きく聞こえた。
私は濡らしたハンカチを手に、南くんの方を向く。
「じっとしててね」
そう言って、彼の頬についた血をそっと拭い取る。
乾きかけた血がハンカチに滲むたびに、胸の奥が痛くなった。
南くんは少し目を細め、
「ハンカチ、汚しちまって悪いな。ありがとう。」と言った。
その整った顔はいつものように無表情で、淡々としている。
けれど、近くで見るとその手が小刻みに震えているのがわかった。
無理もない。
ついさっき、あんなにも強い悪意を、それも真正面からぶつけられた
のだから。
どれだけ平静を装っていても、心が無傷でいられるはずがない。
気づけば私は、自然と南くんの頭に手を伸ばしていた。
優しく撫でるように、指先で髪を梳く。
自分でも驚くほど自然な動作だった。
「……?」
南くんが目を丸くし、首を少し傾げる。
その表情に我に返った私は、慌てて手を離した。
「わっ、ああああ!!ごめん!ほんとごめん!咄嗟に出ちゃって!!」
顔が一気に熱くなるのがわかった。
私の慌てぶりを見て、南くんは一瞬ぽかんとした後、
ふっと小さく笑った。
「藤森は優しいな。」
その言葉が、思いのほかまっすぐで、胸の奥に落ちていった。
一瞬、息が止まる。
心臓が跳ねた音が自分でもはっきり聞こえる。
「ど、どうした?顔、すげぇ赤いぞ。ストレスから来る熱とかか?」
南くんは本気で心配しているようで、また首を傾げている。
その真顔が、余計にずるい。
私はどう答えたらいいのかわからず、ただ両手をわたわたと振るしか
なかった。
「そ、そういうんじゃないから!!」
そのとき、教室の方から足音が近づき、莉愛がひょこっと顔を出した。
「なによお二人さん!ラブラブじゃ〜ん!!」
いたずらっぽく笑う莉愛の声に、私はますます真っ赤になって叫んだ。
「ち、違うってば!!ほんとに誤解!!!!」
そんな私の姿を見て、莉愛はけらけらと笑い、南くんは相変わらず
首を傾げたまま。
ほんの束の間だったけれど、教室の中にあった重苦しさが、少しだけ
遠のいた気がした。
3人はそのまま教室に戻り、各自が購買で買ってきたお昼ご飯を
机の上に並べた。
教室の中は、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだったが、
それでも空気のどこかに重さが残っている。私たちはそんな空気を
振り払うように、できるだけ明るい声で話し始めた。
私はサンドイッチを取り出し、袋を開けた。
莉愛は明太子のおにぎりを手にしていて、包装を破ると同時にふわっと
磯の香りが漂う。
そして南くんは──まるで当たり前のように、素知らぬ顔で購買の
レトルトカレーの封を切り、パックご飯にかけて食べ始めた。
その光景を見た瞬間、莉愛が思わず吹き出した。
「それ絶対、今の状況に向いてないでしょ!」
スプーンを口に運んだまま、南くんは首を傾げた。
「……美味いぞ?」
その一言で、今度は私まで堪えきれずに吹き出してしまった。
「「そういうことじゃなくて…!」」
2人で声を揃えてツッコミを入れると、南くんはぽかんとした表情で
私たちを見つめた。
あまりに真顔だから、余計におかしくなってきて、莉愛はおにぎりを
吹き出さないように笑いを堪えようとしている。
「南くんのそれって、天然?」
私がそう聞くと、南くんは真剣な表情のまま小さく首を傾げ、
「水か?水はいろはすだ。」と返した。
「そういうことじゃないってば!!」
莉愛はついに爆笑しながら机を叩いた。
私も笑いながら、
「南くんって、割と本気で天然だよね……」と呟く。
南くんはそんな私たちの笑い声を聞きながら、変わらず無表情で
カレーを食べ進めていた。
スプーンを口に運ぶたび、どこか無防備で少し不器用なその姿が
なんだかおかしくて、そして少しだけ愛おしかった。
恐怖に覆われた数時間の中で、こんなふうに笑える時間があるなんて、
思いもしなかった。
笑いながらも、心のどこかで──この穏やかな瞬間が、どうか少しでも
長く続きますようにと、私はそっと願っていた。
だが……。
【――3分後にカクレアイが開始されます。今回の発見者は3名です。】
あの放送を聞いた瞬間、教室の空気が一瞬で裂けたように感じた。
机と机のあいだをすり抜けるようにして、誰かが立ち上がり、
走り出す。
床がきしむ音、靴底が床に叩きつけられる音。
先生の気配はなく、廊下の方へ一斉に人が流れていく。
莉愛が私にしがみついて、震える声で
「美咲、怖いよ……」と呟く。
私はとっさに彼女の手を握り返した。
手のひらが冷たく、指先が震えているのが伝わる。
頭の中は真っ白で、いくつもの「?」がぐるぐると渦を巻いていた。
(どこに隠れたらいいの? 机の下?渡り廊下?
屋上は遠い……もし見つかったらどうする?)
そのとき、隣を歩いていた南くんが、淡々と、でもはっきりとした声で
言った。
「藤森、皆川。俺たちも隠れよう」
その一言で、心の中の雑音が少しだけ止まった。
南くんの声は冷静で、無駄がない。
彼が言った瞬間、私の頭にあった不安の断片が一つ合わさって、
行動へと向かう力に変わる。
「う、うん!」
と私は頷き、莉愛の手を強く引きながら教室の出口へ向かう。
廊下にはすでに何人かが走って行った跡があり、かすかに靴の跡が
残っている。
壁にもたれたまま固まっている子、
顔を真っ赤にして息を整えている子。
皆それぞれのやり方で恐怖に対処している。
歩きながら、私は隣の南くんに訊いた。
「隠れるって言っても……どこに隠れたらいいのかな」
南くんは一瞬目を細め、周囲を鋭く見渡した。
教室の外の廊下には、すでに生徒が散らばり、思い思いの方向へ
走っていく。
放送の声が遠くでまだ反響している。
「とにかく、人の多いところは避けよう。
死角を作れる場所を探す。扉の開け閉めで音が鳴る場所は危険だ」
彼の言葉は簡潔で冷静だった。
私はそれだけで少し安心する。
南くんが考えているのなら、この場でうろたえるより彼の後に
ついていくべきだと思った。
廊下を足音を忍ばせて歩く私たち三人。
遠くの方で、誰かの足音やドアの閉まる音が小さく響いている。
誰も喋らないまま、ただ緊張だけが肌に張りついて離れなかった。
そんなとき、莉愛がふと立ち止まり、私の制服の裾をくいっと
引っ張った。
「……ねぇ、美咲。ここ、良いんじゃない?」
彼女が指さした先にある銀色のプレートには、はっきりとこう書かれて
いた。
「女子更衣室」
私は一瞬、目を瞬かせる。
確かに人が来なさそうな場所だし、奥にはロッカーも多い。
隠れるにはちょうどいいかもしれない。
けれど、隣にいた南くんは、プレートを見てわずかに眉をひそめた。
「……悪りぃ。俺は男だから、違うとこ隠れる。」
そう言って、くるりと背を向けようとする南くん。
しかし、私は反射的に彼の襟をむんずと掴んでいた。
莉愛も同時に袖をつかみ、両側から動きを封じるように引き止める。
「ちょ、ちょっと!今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?
今日、私たち以外に学校に来てる人いないんだから平気だって……!」
「そーそー! ていうか、いまさら男女とか気にしてたら
命がいくつあっても足りないよ!!」
莉愛まで真剣な顔で言うから、南くんは明らかに困ったようにため息を
ついた。
「……女子更衣室に入るの、人生で一度も経験ねぇんだけど。」
「いやいや経験あってたまるかっての!」
と、莉愛が小声で茶化すように言い、
私の肩を小突いた。
「もー莉愛もっと真面目に!」
という私を横目に、南くんは観念したように頭を掻いた。
「……わかった。背に腹は変えられねぇな。」
「そゆこと〜!」
と莉愛が小声で返し、私たちは急いで更衣室の扉を開けた。
中は薄暗く、外の明かりがわずかに差し込む程度。
制服や体操服の匂いがほんのり残っていて、使われていないロッカーが
整然と並んでいる。
床は冷たく、外の喧騒から切り離されたような静けさがあった。
「……ここ、ほんとに誰も来なさそうだね。」
私が呟くと、莉愛が頷き、南くんは周囲を見回してから、低い声で
言った。
「ああ。気配もしねぇし、案外穴場かもな。」
心臓の音が、自分でもうるさいくらい響いていた。
誰も来ないで、と祈るように。
私は唇を噛みしめながら、目の前の薄闇を見つめた。
「私はここ隠れるね!」
そう言って莉愛が指さしたのは、壁際にある中型のロッカー。
扉を開けると、中は思ったよりも狭くて暗かった。
それでも莉愛は迷うことなく中に体を滑り込ませ、ギシッと
音を立てながら身を縮めた。
最後に扉の隙間から小さく親指を立てると、ぱたんとロッカーが
閉まる。
残されたのは、私と南くんの二人だけ。
薄暗い更衣室の真ん中で、互いに顔を見合わせたまま、
しばらく動けなかった。
「……どうする?」
「どうしようね……」
そのとき。
――キィィィン……。
あの、気味の悪いチャイムが、静寂を引き裂くように鳴り響いた。
鼓膜の奥がじんと震える。
全身の血が一瞬にして冷たくなった。
【それでは、スタートです!】
明るく、どこか楽しげな声がスピーカーから流れた瞬間、心臓が喉まで
競り上がった。
その直後、反射的に南くんが私の腕を掴み、目の前のロッカーの扉を
引く。
「入れ!」
言われるがまま、私はロッカーの中へ体を押し込んだ。
そのまま、南くんも続いて中に入ってきた。
扉が閉まると同時に、金属の“カチャッ”という音がやけに重く響いた。
狭い。
想像以上に、狭い。
南くんの肩と私の肩が触れ合い、吐息が頬にかかるほどの距離。
顔を向けたら、すぐそこに彼の横顔がある。
息を飲む音さえ響いてしまいそうで、私は慌てて顔を逸らした。
「……咄嗟に同じとこ入っちまった。わりぃ。」
耳元で低く囁かれた声が、鼓膜を震わせた。
距離が近すぎて、声が直接心臓に届いたみたいに感じる。
背中まで一瞬で熱くなる。
「だ、大丈夫。むしろ……心強いから!」
自分でも驚くくらい声が震えていた。
視線を合わせる勇気なんてなくて、ただ俯いたまま、胸の前で両手を
ぎゅっと握りしめる。
ロッカーの中は暗くて、空気が薄い。
けれど、彼の体温だけが近くにある。
その温もりが、怖さと恥ずかしさを同時に膨らませていく。
外では、何かが軋むような音がかすかに響いた。
誰かの足音――それとも。
私は息を止め、南くんの袖をそっと掴んだ。
どうか、見つからないで。
どうか、この音が通り過ぎますように――。
勢いよく――まるでドアが吹き飛んだのではないかと思うほど
荒々しい音が、更衣室の静寂を破った。
ガンッ!
その一撃でドアが壁にぶつかり、金属の高い音が反響する。
私は反射的に肩を跳ねさせ、ロッカーの中で息を詰めた。
すぐ隣で、南くんの体が一瞬びくりと動くのが分かった。
けれど彼はすぐに呼吸を整え、眉間に深い皺を寄せる。
ロッカーの外に――誰かがいる。
ギシ……ギシ……と、床を踏みしめる音が響いた。
誰かがゆっくりと歩いている。
まるで音をわざと立てるように。
その一歩ごとに、ロッカーがわずかに震える。
私は喉の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
息を吸うのが怖い。
肩の奥に力が入り、背中がこわばる。
――見られている。
扉の向こうに視線を感じた。
ロッカーの扉を隔てているはずなのに、
その視線はまるで皮膚をなぞるように生々しかった。
掃除用具入れのような隙間もないロッカーだから、外の様子はまったく
見えない。
けれど、見えなくても分かった。
今、そこにいるのはあのピエロだ。
あの異様な存在感。
空気がひりつくほどの圧迫感。
辺りに漂う、甘ったるくて鉄の匂いが混ざったような、吐き気のする
匂い。
――間違いない。
南くんも同じことを悟ったのだろう。
私と目が合うと、そっと人差し指を唇に当てた。
しーっ。
その仕草だけで、心臓が一段と強く脈打つ。
音を立てちゃいけない。
息を吸っても、吐いても、空気が揺れる。
私は唇を噛みしめ、ただ頷いた。
涙が出そうになるのを必死に堪えながら、息を止める。
……外で、何かが動いた。
床を擦るような音。
金属がコツコツと叩かれる音。
まるで“探している”ようだった。
ゆっくりと、更衣室を這うように、その音は少しずつ近づいてくる。
どく、どく、どく……
心臓の音がやかましい。
まるで鼓動そのものが“ここにいる”と告げているようで、怖くて怖くて
たまらなかった。
全身から汗が吹き出し、背中を伝うあの感覚。
ロッカーの中の空気は重く、呼吸がうまくできない。
目を閉じても、暗闇の奥であの笑い顔が浮かぶ気がした。
――どうか、通り過ぎて。
――どうか、見つからないで。
私は祈るように、震える指先で南くんの袖を掴んだ。
彼の体温が、唯一、現実をつなぎ止めてくれる。
そしてそのとき――。
コン……
ロッカーのすぐ隣で、何かが当たる鈍い音がした。
私は思わず、息を止めたまま目を見開いた。
ロッカーの外から、ギィ……バタンと、金属の開閉音が響く。
一つ、また一つ。
間違いない――“あれ”は今、順番にロッカーを開けていっている。
しかも、その方向は奥の莉愛のロッカーではなく、私たちの方へ。
手前から、着実に――確実に――近づいてきている。
ガチャ。バタン。ガチャ。バタン。
そのリズムが、まるでカウントダウンのように響く。
私の頭は真っ白だった。
(どうしよう、見つかる。絶対に見つかる。)
その思いだけが、鼓動の音と混ざって頭の中を支配していた。
息が浅くなる。
胸が痛い。
呼吸を殺そうとしても、喉の奥が勝手に震えて空気を求めてしまう。
そのとき、南くんの腕がそっと伸びてきて、私を抱きしめた。
「……大丈夫だ」
――とでも言いたげに。
けれど、背中越しに伝わる彼の鼓動も、私と同じように速く、
不安定だった。
そして――。
ガチャ。
真横のロッカーが開いた。
鉄の軋む音とともに、外の空気が一瞬、私たちの隠れている扉の隙間に
入り込む。
鼻を刺すような甘い臭い。血と鉄の匂い。
心臓が、爆発しそうだった。
(もう、終わりだ。)
そう思った瞬間――。
ドンッ! ドンドンドンッ!
更衣室の奥の方で、何かを力任せに叩く音が響いた。
音は甲高く、壁に反響する。
その直後――。
「このバカピエロ!!!
私の親友殺すなんて、絶対許さないから!!!」
莉愛の声。
怒鳴るような、泣き叫ぶようなその声が、空間の緊張を
一気に引き裂いた。
私はハッと息を飲んだ。
莉愛が囮になったんだ。
私たちを守るために。
でも、このままじゃ――!!
考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。
ロッカーの扉を勢いよく開け、飛び出す。
空気が一気に冷たく感じる。
視界の端で、南くんが追いかけてくるのが見えた。
「莉愛!!!」
叫びながら駆け寄る。
彼女はロッカーの外に立ち尽くし、震える手でモップを握りしめて
いた。
そしてその真正面に――。
ピエロがいた。
白塗りの顔。
異様に大きな赤い鼻。
口角が引き裂かれたように笑っているのに、目だけがまるで死人の
ように濁っている。
その手には、ナタ。
刃にこびりついた黒ずんだ液体が、床にぽたぽたと垂れる。
私と南くんは、反射的に莉愛の前に立った。
体が勝手に動いた。
怖くて、震えて、それでも――動いた。
ピエロはゆっくりと首を傾け、歪んだ笑みを浮かべた。
「ア……ハァ……」
湿った笑い声が、耳の奥にまとわりつく。
そして――。
ナタを大きく振りかぶった。
空気が、裂けた。
私は、息をすることさえ忘れていた。
次の瞬間、視界がぐるりと回った。
「な――っ……!」
何が起こったのか理解するよりも早く、私と莉愛の身体は勢いよく
突き飛ばされ、床を転がった。
肩を強く打ちつけた痛みがじんわりと広がり、息が詰まる。
頭の奥がジンジンと鳴っている。
そのすぐあと――耳を裂くような低いうめき声が響いた。
「……っ、ぐ……ゔぁ゙っ……」
ぞくりと背筋が凍りついた。
その声は、私たちのものじゃない。
顔を上げると、
そこには――ピエロのナタが右肩に深く突き刺さった南くんがいた。
ほんの数秒前まで私たちが立っていた場所に、彼は片膝をつき、
ぼたぼたとおびただしい量の血が滴る右肩を押さえてうずくまる。
呼吸は荒く、肩が上下に震えている。
痛みに耐えているのか、目をカッと見開き、必死に深く深呼吸を
していた。
私は目の魔影の状況を信じられず、息を呑んだ。
「……な、南くん……っ……」
声が震えていた。
言葉が喉の奥で絡まり、次の音が出てこない。
それでも彼は、私の方を見て、かすかに口角を上げた。
痛みで顔が歪んでいるのに、どこか安心したような表情で――。
「はや…く……逃げ…」
その言葉に胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
ピエロは、そんな状況でも狂ったように笑っていた。
白塗りの頬に、真っ赤な口角が引きつるように吊り上がっている。
まるで心底楽しんでいるかのような、ぞっとするほどの笑み。
無機質な仮面のようなその顔が、ゆっくりと南くんを見下ろした。
全身の血が一瞬で冷える。
体が動かない。
喉も固まって声が出ない。
ただ、その冷たい笑みだけが頭の奥に焼き付いて離れなかった。
隣で、莉愛が震えながら小さく
「いや……いやぁ……」と呟いた。
彼女の手が私の袖を掴み、指先まで冷たくなっているのが伝わる。
私も同じだった。
怖くて、動けなかった。
ピエロがゆっくりと腕を持ち上げる。
空気が重くなり、息が吸えなくなる。
教室で笑っていたあの平和な時間が、まるで遠い昔の夢のように
感じられた。
「……やめて……お願い、やめて……!」
私の声が、涙と一緒に零れ落ちた。
でも、その願いは空気に吸い込まれていくだけで、何も届かない。
南くんは倒れ込みながらも、なんとか体を起こそうとしていた。
彼の背中越しに見えるピエロの姿は、ただ静かに彼を見下ろしていた。
息ができない。
喉が勝手にひくついて、苦しい。
頭の奥で何かが警鐘を鳴らしているのに、体が言うことを聞かない。
恐怖で、現実感がどんどん遠ざかっていく。
ピエロが再び腕を上げた。
鈍い光がちらりと揺れ、今度は南くんの頭上に――。
「……やめてぇぇぇっ!!」
私の声が教室に響いた。
そして次の瞬間――頭で考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。
「……っ」
気づけば私は南くんの左腕を掴み、その身体を自分の方に
引き寄せていた。
自分の肩に南くんの左腕を回して支えると、信じられないほどの力が
湧いてきた。
それはまるで“火事場の馬鹿力”という言葉の意味を、今になって
理解したような感覚。
恐怖も痛みも、思考すらもすべてが霞んで、ただ「助けなきゃ」という
衝動だけが私を突き動かしていた。
「莉愛!!行くよ!!!」
呆然とその場に立ち尽くしていた莉愛の手を、私は強く掴んだ。
そして、ほとんど引きずるようにして更衣室の外へ走り出した。
更衣室を飛び出してすぐ、私はドアを思い切り閉めた。
「バタンッ!」
という大きな音と同時に、震える手で鍵を回す。
カチリ、と小さな音が鳴った瞬間、ようやく少しだけ息ができた。
「っ……はぁ、はぁ……!」
息が焼けつくように熱い。
肺が悲鳴を上げている。
それでも止まれなかった。
ただ前へ――光の差す廊下の向こうへ――。
「……は、はぁっ……」
だが、まだ終わっていない。
私たちはまだ“見つかる側”のままだ。
そう思うと、足の震えを無理やり押さえ込み、再び走り出した。
エンジンが切れる前に――その一心で、私は全速力で廊下を
駆け抜けた。
南くんの体温が肩越しに伝わってくる。
意識を失い、脱力している身体は重たかった。
けれど、それ以上に「ちゃんと生きている」という感覚が確かで、
絶対に離したくなかった。
足音が響くたび、鼓動が耳の中で爆発するように鳴る。
視界の端が霞み始め、呼吸がどんどん浅くなっていく。
どれだけ走ったのか、時間の感覚がまるでなかった。
けれど、ようやく少し距離を取れたと感じたとき、私は近くのドアノブ
を掴んだ。
そこは使われていない空き教室だった。
勢いのまま中へと飛び込み、すぐさま後ろ手でドアを閉めた。
中は薄暗く、静まり返っている。
窓から差し込む光が床に細長い線を作っていた。
私は南くんを壁にもたれかかるように座らせ、息を切らせながら莉愛の
様子を見た。
「莉、愛……大丈夫……?」
彼女は肩で息をしながら、何度も頷いた。
「……う、うん……美咲こそ……!」
「そっか……よかっ――」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「っ………!」
途端に、体中を襲う重たい疲労感。
頭がふわふわして、足の力が抜けていく。
鼓動の音がどくん、どくんと、耳の奥で異様に大きく鳴り響く。
空気を吸おうとしても、酸素が足りない。
「はぁ……はぁ……」
と必死に呼吸を繰り返すのに、肺が追いつかない。
視界の端が暗くなっていく。
壁に手をついても、力が入らない。
南くんの方に手を伸ばそうとしたけれど、指先がかすかに震えただけで
動かなくなった。
――ああ、私、もうだめかも。
そんな考えが頭をよぎる。
でも、その瞬間に浮かんだのは、南くんと莉愛の顔だった。
ちゃんと助けられた。
ならそれで……いいかな。
その安心が全身を包み込んだ次の瞬間、世界がふっと遠のいた。
音も、光も、すべてが消え、私はその場で静かに意識を手放した。
* * *
ふと目を覚ました美咲は、まばたきを何度も繰り返した。
薄暗い空き教室の中、意識がまだ朦朧としていて、周りの景色が
揺れるように見える。
「……ん?」
そう呟いた瞬間、視界の端に不意に莉愛の顔が飛び込んできた。
美咲は思わずひゃっと声を上げて固まった。
「美咲!!」
莉愛は泣きそうな顔で、手を震わせながら美咲の顔を覗き込む。
「南〜!!起きた!起きたよぉぉぉ!!!」
美咲は横になったまま、ただきょとんとして莉愛を見つめる。
状況がまだ頭に入ってこない。
その瞬間、教室の外からドタドタドタ、と騒がしい足音が近づいてき
た。
「南く――」
言いかけたところで、勢いよく飛び込んできた南くんに、美咲は
そのまま抱きしめられた。
「ちょっ……!?」
思わず目を見開き、身体が固まる。
南くんの温もりと力強さ、そして必死さが直に伝わって、
心臓がぎゅっと締めつけられる。
「良かった……ほんとに良かった……」
南くんは泣きそうな声で何度も繰り返し、美咲を抱きしめたまま
離そうとしない。
横では莉愛が嗚咽をもらしながら、肩を震わせて大号泣していた。
美咲はその光景を目にしても、頭の中は完全に真っ白で、
状況がまったく理解できず、固まったままその場に座り込んでいた。
「ちょ、落ち着いて!」
美咲は必死に南くんを引き剥がした。
しがみついた彼の腕からようやく距離を取り、息を整えながら二人に
向かって叫ぶ。
「何どうしたの? 怖いんだけど……!」
すると二人は、まるで同時に答えたかのように口を揃える。
「ピエロから、俺抱えて逃げてくれたんだろ?
目覚ましたら藤森も倒れてたから肝を冷やした。」
南くんの声は少し震えていたが、どこか安心したような安堵が
混じっている。
「ほんと美咲死んじゃうかと思ったぁぁぁ!」
莉愛は未だに嗚咽をもらしながら、大号泣でその場に立ち尽くしていた。
美咲は二人の言葉を聞き、数秒間ぼんやりと考え込み、
やがて、ゆっくりと頷き、声を漏らした。
「あー……なるほど……」
納得したように目を細める美咲。
だがその数秒後、体が突然反応する。
「ちょ、ちょっと待って! 南くん、肩は!?!?!」
飛び起き、南くんの右肩に視線を集中させる。
ナタが刺さっていたはずの右肩には、簡易的な包帯の代わりなのか
千切られたカーテンが巻かれている。
けれどその下からは、まだ血が滲んでいた。
美咲は真っ青な顔でその光景を見つめる。
鼓動が耳の奥でどくん、と鳴り、手に汗が滲んだ。
しかし、南くんはあっけからんとした笑顔を浮かべ、
落ち着いた声で言った。
「今はもう、ほとんど痛みもないから大丈夫だ。
皆川が手当してくれたから、出血も少なく済んだ。」
その横で莉愛はドヤ顔をして、胸を張るように言った。
「でっしょ〜? なんてったって看護師志望ですから〜!」
美咲はその二人の様子を見て、安堵と恐怖が入り混じった複雑な表情で
息を吐いた。
へなへなと座り込んだ美咲は、今度は自分から南くんの傷に
触れないように注意しながら、慎重に彼を抱きしめた。
まるで割れ物を扱うかのように、優しい手つきで。
「……良かったぁ……」
美咲はその声を、今にも泣き出してしまいそうなかすれた声で漏らした。
息が少しずつ胸に戻っていく。
右腕をそっと伸ばして莉愛も引き寄せ、南と莉愛、二人を同時に
抱きしめる美咲。
一瞬、二人はキョトンとした表情を浮かべたが、すぐにお互いの目を
見合わせ、柔らかく微笑む。
そして、そっと美咲の頭を撫でた。
その温もりに、美咲の胸の奥で張り詰めていた緊張が、ゆっくりと
溶けていく。
三人だけの静かな時間が、ようやく訪れた瞬間だった。
けれど、その直後だった。
「……美咲」
いつもより少しだけ低い、真面目な声。
莉愛の表情がきゅっと引き締まる。
いやな予感がして、胸の奥がざわ、と揺れた。
「二回目のゲーム……美羽と宮野くん、それと……地雨さんが
死んだ。」
一瞬、時が止まった。
「放送で言ってた通り、三人死んだから……それで二回目のゲームは
終わった、って。」
莉愛は淡々と伝えようとしているのに、声が震えていた。
それが逆に、現実の重さを突きつけてくる。
理解が追いつかない。
脳の中で言葉が音を立てて崩れていく。
「……え……?」
愕然、という言葉では足りないと思った。
頭が真っ白になるって、こういう感覚なんだろうか。
美羽は、グループこそ違ったが、
「美咲はほんと髪の毛綺麗だよねぇ〜!私は癖っ毛だから羨ましい!」
なんて言いながら、よく笑って話しかけてくれた。
誰にでも分け隔てなく優しくておしゃれな美羽は、私の憧れでも
あった。
宮野くんは、誰にでも冗談を言って、クラスをふわっと明るく
してくれる、A組のムードメーカーだった。
地雨さんは――小泉さんが...大親友が死んで、涙を流していた。
みんな、つい数時間前まで教室にいた。
当たり前みたいに、同じ空気吸って、笑ってた。
それが、もう。
「……うそ、でしょ……」
自分の声がかすれて聞こえた。
涙は不思議と出なかった。
ショックが大きすぎると、涙よりも先に頭が真っ白になるんだという
ことを、美咲は初めて知った。
隣で南くんが、静かに言った。
「……俺と皆川は、ゲーム終了の放送を聞いただけだ。」
いつもの落ち着いた声なのに、少しだけ沈んでいるように感じた。
「でも……さっき会った星宮が言ってた。だから……多分、事実だ。」
南くんの拳がぎゅっと握られる。
膝の上で白くなるほど、強く。
その姿が胸に刺さった。
三人も、死んだ。
この学校で。
同じクラスで。
同じ時間を過ごしていた仲間が。
「……そんなの、ありえないよ……」
声に出した瞬間、現実が形を持って迫ってきて、呼吸が乱れた。
莉愛がそっと背中に触れてくれる。
その温かさで、ようやく自分が震えていることに気づいた。
嗚咽が、堰を切ったみたいにこぼれ落ちた。
膝が勝手に折れて、その場にうずくまる。
胸の奥がぎゅっと潰されたみたいに痛くて、息を吸おうとしても空気が
喉に入らない。
「っ……ひ……っ、ぁ……っ……!」
ようやく溢れ出した涙が、次から次へと頬を伝って落ちていく。
喉が何度もひくついて、それでも涙は止まってくれなかった。
――どうして?
どうして私たちがこんな目に遭わなきゃいけないの?
あのピエロは何なの?
あの放送は誰がやってるの?
誰が何のためにこんな残酷なことをしてるの?
頭の中が「?」で埋め尽くされて、そのどれもが答えを持たないまま
消えていく。
考えたくても、もう何も追いつかない。
限界だった。
こんなの全部夢だって――
そう言い聞かせたかった。
必死に、必死に夢にすがりつきたかった。
でも……目の前に突きつけられる“死”が、残酷に現実を形作っていく。
小泉さん。美羽。宮野くん。地雨さん。
名前を思い出すたび、胸の奥が引きちぎられそうだった。
――これで、3−Aは23人。
数字だけが冷たく頭に浮かんで、突き刺さる。
そのたびに涙が込み上げて、呼吸が荒くなる。
もう嫌だ。
全部投げ出したい。
死にたい……。
心はそう叫んでいるのに、身体は違った。
生きようとしていた。
しがみつくみたいに空気を吸おうとして、苦しくても何度も呼吸を
していた。
「美咲……美咲、大丈夫、だから……っ」
隣から聞こえる莉愛の声は、震えていた。
涙をこらえているのがわかる。
私を抱き寄せる手が小刻みに揺れていて、必死に落ち着かせようと
してくれていた。
そして、反対側から――
「……大丈夫だ。」
南くんが、そっと背中を擦ってくれる。
その仕草は驚くほど丁寧で、ゆっくり、ゆっくり呼吸を合わせるみたい
に一定だった。
肩に巻かれた布は、まだところどころ赤く染まっている。
傷口が完全に閉じていないのが一目で分かった。
それなのに、痛みをこらえてまで優しく手を伸ばしてくれている。
「ごめんね」と言おうとしたけれど、声にならなかった。
また喉がつまって、嗚咽だけが漏れる。
世界がぐらぐら揺れて見える。
涙で滲んで、教室の色が全部混ざっていく。
でも――両側から支えてくれる温もりだけは、はっきり感じていた。
壊れそうになっている私を必死に引き戻そうとしてくれる温かい手が、
確かにそこにあった。
涙と嗚咽でぐしゃぐしゃになった声が、勝手に漏れた。
「……っ、2人は……死なないよね……?
いっしょに……生きてくれるよね……?」
言った瞬間、自分でも驚くほど弱々しい声で、子供みたいに
縋っているのが分かった。
南くんがぴたりと動きを止める。
その横顔が一瞬ぐっと強張って、苦しげに眉が寄った。
喉がひく、と震えたのが分かるほど静かだった。
俯いて、唇を噛み締めて――
そして、絞り出すように言った。
「……ああ。生きて出よう、必ず。」
それは強がりでも、慰めでもなく、今の南くんが言える、
限界ぎりぎりの“約束”みたいだった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
続いて、莉愛が勢いよく顔を上げた。
「あったり前でしょ〜!! 絶対生きてやるもん!
もちろん、2人と一緒にね!」
そう言って涙で潤んだ目のまま、無理矢理明るい笑顔を作ってみせる。
その笑顔がちょっと歪んでいるのが余計に愛しくて、痛くて。
その瞬間、ふっと体から力が抜けた。
息がふらついて、咳き込むみたいに肩が揺れる。
それでも私は何度も、何度も頷いた。
「……ごめん……ごめんね……
2人だって不安なはずなのに……ごめん……」
そう言った途端、南くんと莉愛が同時に目を見開いた。
そして――泣き笑いみたいに、ぐしゃっと顔を崩した。
「やっといつもの美咲が帰ってきたぁー!!」
莉愛が勢いよく抱きついてくる。
腕の中があたたかくて、涙がまた溢れそうになった。
南くんも、かすかに震える声で笑う。
「藤森、……おかえり。」
目尻に涙を浮かべながら、それでも優しく笑ってくれた。
その笑顔を見て、胸の奥に溜まっていた何かが、やっとほどけていく。
二人の声に包まれながら、私はようやく――生きたいと思った。
そうしてやっと落ち着き、平常心を取り戻した三人は、
これからのことを話し始めた。
「今までも星宮以外誰も来なかったし、拠点はここにしねぇか」
そう尋ねた南くんに、美咲と莉愛は笑って、
「そうしよそうしよ!」
「ちょうどいい広さだしね」と答えた。
二人の言葉に軽く頷いた南くんは、私がまだ眠っている間にこの教室を
莉愛に任せて学校のあちこちを探索していたらしく、クラスメイト
それぞれの拠点も把握しているようだった。
「みんなはどこらへんに隠れてるの?」
そう私が尋ねると、南くんはゆっくりと肩を庇いながら立ち上がり、
白いチョークで黒板に校内図を書き始めた。
カッ、カッという懐かしい音が響き、黒板にきれいな線と文字が
書き加えられていく。
そうしてそれをながめていること数分。
校内図を書き終えた南くんは、ふーっと息をつき、最後にF1からF4の
文字をそれぞれの頭に振っていき、それが終わると、それぞれの階の
教室に赤いチョークでいくつか印をつけていった。
「一番上の図にある赤丸。これが今俺達がいるこの教室だ。」
印をつけ終わった南くんは、そう言うとチョークで赤丸を叩いて
強調した。
「F4……ああ、4階って意味か。」
と隣で莉愛が呟いた。
どうやら南くんの図によると、この階には私たち以外誰も隠れていない
らしかった。
だが反対に、F3と書かれた、美咲たちのいる4階より一つ下の――
3−Aの教室がある三階は人が密集していて、同じ階に三つの赤丸が
存在していた。
一つは3−Aの教室で、その赤丸の上には、『笹岡琴音、沢城美由紀、
大蔵綾音、我狼大我、石川湊』という五名の名前が書かれていた。
その五人は普段の学校生活でも仲が良く、行動を共にしていたため、
納得のいくメンバーだった。
「ここは多分、校内にいるグループの中で一番人数が多い。
俺が見に行ったときは、なんとか気力を保ってたが....。」
そこまで言って、南くんは言葉を切った。
そして、3−Aの教室から少し離れた場所にある用具室に書かれた
赤丸の上には、『真野彩海・萩原凛音』と書かれていた。
二人はピエロに殺されてしまった地雨さんと羽菜さんと特に
仲が良かった。
きっと私以上にショックを受けているだろう。
大丈夫だろうかと心配がよぎった。
だが、そんな美咲の心の内を呼んだかのように、南は力なく笑みを
浮かべると、
「この二人は大丈夫だ。地雨と小泉の分まで生きると豪語してた。」
と言った。
三階の最後の赤丸は一番端の教室に書かれており、そこには
佐川恋雪と佐倉望の名前が並んでいた。
「ここには佐倉と佐川がいた。随分余裕そうな表情だったから、
もしかしたらなにか策があるのかもしれない。」
怖がりで二回目のゲームが始まる前も悲鳴を上げていた恋雪ちゃんと、
南くんを疑って一方的に殴ってきた短気な望くん。
そんな二人が行動を共にしていることに、美咲はどこか違和感を
覚えた。
南くんは黒板の下へ視線を移し、次に描かれた2階の欄へとチョークを
滑らせた。
F2と記された図にも、赤丸が二つ。
しかし、その赤丸の上にはまだ名前が書かれていなかった。
「ここは……誰がいたの?」
私がそう尋ねると、南くんは二つのうち、一番端に描かれた赤丸を
指さした。
「こっちは星宮と成瀬、それと奈良岡と水野の女子グループがいた。」
そう言いながら、彼はその赤丸の上にまず「星宮天音」と書き込む。
そして次の名前を書こうとしたところで、眉をひそめ、首をかしげた。
「どしたの?」
莉愛が首を傾げながら問いかける。
南くんは、気まずそうに目をそらし、チョークを持った左手で
頬を掻きながら、ぼそりと呟いた。
「……悪りぃ。女子の下の名前、漢字分かんねぇ。」
その瞬間、莉愛はぽかんとした顔になり──すぐに吹き出した。
「別に平仮名でも良いのに……!」
ケラケラと笑いながら、南くんからチョークをひょいと奪い取る。
「じゃあ、私が書きまーす」
そう言って黒板に向き直ると、彼女は軽快に手を動かした。
南くんの流れるようで癖のない、美しい細字とは対照的に、莉愛の字は
丸っこくて少し跳ねた可愛い丸文字だ。
黒板には、
『星宮天音・成瀬柚希・奈良岡美桜・水野雅美』
と、まるで手帳に書くような柔らかさで名前が並んでいく。
書き終えたのを見て、南くんは素直に感心したように息をもらした。
「……記憶力良いんだな。」
そう感心したように呟く南くん。
それを聞いた私は思わず笑みが漏れた。
莉愛は、こういう時でも決して暗くならない。
きっと空元気でもあるのだろうけれど──その底抜けの明るさと、
南くんの少しズレた天然ぶりに、私は確かに救われていた。
全員の名前を書き終えた莉愛は、チョークを黒板の端に置きながら、
ふっと肩の力を抜くように振り返った。
その視線が、F2の図に描かれたもう一つの赤丸に向かい、指先で
ちょん、と示す。
「で、ここはー?」
柔らかな声で問いかけると、南くんはその瞬間、ぱっと顔を明るくした。
ついさっきまでの真剣な表情とは打って変わり、少年のように素直な
笑みだ。
「ここは全員男子だったから任せろ。」
胸を張るようにそう言って、莉愛の手からチョークを受け取る。
あまりにも嬉しそうだったため、莉愛は目を瞬かせ──次の瞬間、
吹き出した。
「どんだけ書きたいの……!」
爆笑しながら身を折る莉愛。
その勢いにつられるように、私も思わずクスクスと笑ってしまった。
怖さや不安で固まっていた胸の奥が、少しだけあたたかくほぐれていく
のを感じる。
そんな私と莉愛を見て、南くんはキョトンと首を傾げた。
自分が笑われている理由が本気でわからないらしい。
しかし、彼は気にした様子もなく、黒板へ向き直ると、少し誇らしげに
説明を始めた。
「ここは井口と神宮寺、水瀬と西川がいた。
……“何かあったら頼れよ”って言ってくれてさ。嬉しかった。」
その時のことを思い出したのか、心の底からじんわりと嬉しさが
広がるような笑顔が浮かんでいた。
普段あまり感情を出さない南くんが、こんなふうに表情を崩すのは
珍しく、そのギャップに胸がじんわりする。
彼は、黒板に迷いなく名前を書き始めた。
『井口 周平・神宮寺 伊織・水瀬 透・西川 翔真』
筆圧の強い、真面目で整った字が並ぶ。
書き終えると、南くんはチョークを置き、「どうだ」とでも
言いたげな、ほんの少しドヤッとした顔で振り返った。
本人はまったくの無自覚なのだろう。
しかし、普段クールで冷静な彼が、ちょっとしたことで得意げになって
いるのがやけに可愛い。
そのギャップが面白くて仕方がなく、私と莉愛は思わず顔を見合わせ、
また小さく笑い合った。
南くんの天然ぶりに、重かった空気がふっと軽くなる。
ほんのわずかなひとときだが、確かにここには笑顔があった。
南くんは黒板いっぱいに書き上げた校内図をじっと見つめたあと、
スマホを取り出し、何の迷いもなくシャッターを切った。
軽い電子音が教室に響く。
カシャッ。
その音を聞いた瞬間、私と莉愛は同時に「えっ!?」と驚いた声を
上げた。
あまりにも自然に撮影したため、最初は何が起きたのか
理解できなかった。
「いやいやいやいや、えぇ!? スマホ動くの!?!?」
一回目のゲームが終わった直後。
私たちは外部へ助けを求めようとして、何度もスマホを操作した。
しかし、圏外どころか、画面そのものが反応しなくなり、
完全にフリーズしてしまっていた。
まるで、外の世界と引き離されるように。
だからこそ、南くんが当たり前のようにカメラを使っている光景は、
あまりにも衝撃的だった。
「えぇぇ、カメラ使えるの!?これ……いやそんな普通に!?」
莉愛が目を丸くしながら言う。
私は慌ててポケットからスマホを取り出し、電源ボタンを何度か押す。
フリーズしたまま真っ黒だった画面が──ふっと明るくなり、
何事もなかったかのようにスムーズに起動した。
「……ほんとだ……ちゃんと動く……」
半信半疑でカメラのアイコンをタップすると、画面は遅延もなく鮮明に
切り替わった。
カメラが正常に動くという当たり前のことが、今は奇跡のように思える。
一階から響くお母さんの声で、目をゆっくりと開ける。
まだ寝ぼけていて、頭の奥で「まだ寝たい……」と声がする。
布団の中で伸びをしながら、今日はどんな一日になるのかな、
とぼんやり考える。
けれど、考える前に、もう一度声が聞こえた。
「美咲、起きないと遅刻するわよ」
その声に小さくため息をつき、やっと重い身体を起こす。
毛布を手で払いながらベッドから降りると足元はひんやりとしていて、
朝の冷たさを感じた。
眠い目をこすりながら、制服をタンスから取り出す。
胸元まで伸びた黒髪をとかすのは毎朝の習慣で、ブラシの滑る音が
部屋の静寂を少しだけ破る。
髪を軽くアップにまとめ、無造作になりすぎないように整えた。
洗面所に立ち、蛇口から出る水で顔を洗う。
冷たい水が頬に触れるたびに、まだ半分夢の中の頭がすっと覚めていく。タオルで顔を拭き取り、化粧などはしない。
鏡に映る自分の顔はまだ寝ぼけたままの表情で、ほんの少し目が腫れて
いる。
時計を見ると、もう出る時間ギリギリ。
朝食を取る時間はなく、慌ただしく鞄を肩にかける。
「いってきます!」
と声を出して家を飛び出すと、背後から小さく
「いってらっしゃーい」
というお母さんの声が聞こえる。
その声に、ほんの少しだけ背中を押されるような安心感を覚えた。
玄関のドアを閉めると、朝の澄んだ空気が顔を撫でる。
まだ人通りの少ない道を歩き、今日もいつも通りの通学路だと
思いながら、靴底が地面に触れる感触を確かめる。
私が通う清蘭中学では自転車が禁止されているため、家が遠い私は
他の人より少し早く家を出る習慣がある。
いつもより少し早い時間帯だから、通学路にはまだ子どもたちも
少なく、遠くの交差点で信号待ちをする人影がちらほら見える程度だ。
空は淡い青に染まり、街路樹の葉先にはまだ朝露が残っている。
歩きながら、今日の授業のことや、放課後に莉愛と何をするかを考え、少し微笑む。
甘いものを食べに行く約束をしていたことを思い出すと自然に
胸が弾んだ。
「今日も、普通の日……だよね」
小声でそう呟きながらも、どこかで違和感を感じる自分がいる。
街のどこかに、見慣れない影や、何か不穏な気配が潜んでいるような
気がして、思わず背筋を伸ばす。
けれど、考えすぎだろうか――と思い直して、歩みを進める。
今日もなんてことない一日が始まる。
……そう思っていた。
まさか、私達の日常が一瞬で壊れてしまうなんて、誰も想像できなかっただろう。
校門をくぐった瞬間、予想外の衝撃が私を襲った。
「わっ!」
思わず声を上げてしまう。
飛びついてきたのは、親友の皆川莉愛だった。
にやにやといたずらっぽく笑う彼女の顔を見て、私はつい顔をしかめる。
「びっくりした?」
「もー、やめてよねー!!心臓止まるかと思った!」
笑いながら言う私に、莉愛はさらに得意げに笑った。
彼女といると、こうして些細なことでも楽しくなる。
息を整えながら、ふたりで靴箱へ向かう。
上靴に履き替えようとしたその時、莉愛がふと首を傾げた。
「あれ…?なんか……、人いなくない?」
確かに、目を凝らすと周りには誰もいない。
普段なら、朝の靴箱は声や足音であふれ、どこか騒がしいのに、
今は私達2人しか居ない。
辺りは妙に静かで、靴のゴム底が床に触れる音だけが響いていた。
「ほんとだ……。なんか不気味だね……」
小声で呟きながらも、私は肩をすくめ、気のせいだと自分をなだめる。莉愛は不安そうに周囲を見渡しながら、そっと私の腕に触れる。
いつもなら、こういうときもふたりで笑い飛ばすのに、今日は何かが
違った。
階段を上がると、3年生のフロアにたどり着いた。
やはり、普段の賑やかさはない。
教室のドアの前に立つと、少し胸の奥がざわつく。
それでも、私達のクラス、3−A のドアを開けると、いつもどおりの
景色が広がっていた。
友達の姿があり、教科書やノートが机に整然と並び、声を上げて
挨拶するクラスメイトたち。
「おはよー!」
「おはよう、美咲!」
ひとつひとつの挨拶に、私は自然に返す。
席につくと、安心感が少しだけ戻る――つもりだった。
だが、莉愛はすぐに駆け寄ってきて、目を大きく見開いた。
「ねぇ美咲…。やっぱおかしいよ。
今覗いたら、他のクラス誰もきてなかった……!」
不安げに呟く彼女を、私は軽く肩を叩いてなだめる。
「大丈夫だって、たぶんまだ早い時間だからだよ」
そう言いながらも、私自身、胸の奥に小さな違和感と不安を抱えていた。教室の中は平穏に見えるのに、学校全体が妙に静まり返っている。何か、いつもとは違う――そんな予感が、じわじわと心を締めつけるのを感じた。
「大丈夫だよ……」
そう、莉愛と自分に言い聞かせていたその瞬間だった。
教室の静けさを切り裂くように、ジジジッ――と、ノイズ混じりの
チャイムが鳴り響いた。
いつもの授業開始のチャイムとは明らかに違う、機械的で冷たい音。
耳に残る不快な振動が、胸の奥に小さな不安を生み出す。
周囲を見ると、クラスメイトたちは皆、不思議そうに首をかしげている。
もちろん、莉愛も大きな瞳を見開き、眉を寄せていた。
チャイムが鳴り終わると、教室のスピーカーから低く、棒読みの女性の声が響いた。
声には抑揚も温かみもなく、ただ冷たく事務的で、まるでAIが喋って
いるかのようだった。
【生徒の…いえ、3−Aの皆様、おはようございます。
これからカクレアイゲームを開始します。3分以内に隠れてください。
今回の発見者は1名です。繰り返します――】
教室の空気が一瞬で張り詰める。
頭の中が真っ白になり、何をどう考えればいいのか、思考が全く追いつかない。
声を出そうとしても、喉が固まってうまく言葉が出せない。
「な、何…?これ…」
思わず漏れた自分の声は、かすかに震えていた。
目の前の教室や友達の姿が、急に遠くて現実味のないものに思えた。
どうしてかは分からない――ただ、恐怖が全身を駆け巡る。
そんな私を見て、莉愛がそっと肩に手を置いた。
「美咲、大丈夫……ね? 隠れればいいんだよ、ただ隠れれば……」
その声に、恐怖と不安の中に、かすかな安心が混じる。
けれど同時に、頭の片隅で警告が響く――これは、ただのゲームでは
済まない。
何か危険なものが始まろうとしている、と。
私は深呼吸をし、莉愛の手を握り返した。
「う、うん……」
静かな教室の中、刻々と残り時間が減っていく。
3分後に何が待ち受けているのか、まだ誰も知らない。
「こっち、早く……!」
莉愛の声に促され、私たちは必死に教室の隅にある掃除用具入れの
ロッカーへと滑り込んだ。
狭い空間に身を縮め、重なり合うようにして座る。
普段なら、こんな狭くて埃っぽい場所なんて絶対に嫌だと思うはず
なのに――今は違った。
安全だと信じたい、ただそれだけだった。
息を殺し、手をぎゅっと握りしめる。
肩が震えるのは恐怖のせいだけではなく、莉愛の手の温かさも伝わっているからかもしれない。
時間は無情にも進んでいく。10秒、20秒……。
何も起きない。
息を整えようとするけれど、耳に残る心臓の音がやけに大きく感じられる。
「……美咲、大丈夫?」
莉愛の囁きに、小さく頷く。
しかし、空気を切り裂くように、乾いた声が聞こえた。
「なんだ、なんも起きねーじゃん。」
カーテンの後ろに隠れていた佐倉望くんだった。
彼は安堵したように笑い、まるで私たちをからかうかのように肩を
すくめた。
その瞬間、教室の緊張は一気に緩み、周囲のクラスメイトたちも次々と
姿を現す。
「なーんだ、びびったー!」
「ったく、どんなイタズラだよ〜〜!」
皆が安堵の笑いを漏らす。
私と莉愛も思わず、「なーんだ」と笑いながらロッカーから出ようと
した――その時だった。
――ジジジッ……
あの気味の悪いチャイムが、再び教室中に響き渡る。
先ほどの冗談の空気は一瞬で凍りつく。
誰もが動きを止め、引きつった笑みを浮かべた。
心臓が喉元まで上がってくる感覚。
恐怖の波が教室を支配する。
チャイムが止まると、スピーカーから低く、しかし朗らかで人間らしい声が流れた。
先ほどの棒読みの無機質な声とは違う。
【それでは、スタートです!】
その声は暗いというよりも、楽しげで、朗らかで――どこか底知れぬ
不気味さを孕んでいた。
笑い声のように響くその声に、背筋が凍る。
「……な、なにこれ……」
莉愛の手が、私の手を強く握る。
その時、廊下の奥から微かに足音のようなものが聞こえた気がした。
息を殺し、息を潜める。
放送が終わって、ほんの数秒後。
誰かが小さく、震える声で言った。
「ね、ねぇ……なんか、ミシミシ音しない……?」
その一言で、教室の空気が凍りついた。
全員が一斉にドアの方を見る。
確かに――廊下の奥から、何かがゆっくりと、
床板を踏みしめるような、
「ミシ…ミシ…」という重い音が近づいてくる。
誰も何も言わない。
次の瞬間、まるで合図でもあったかのように、全員が慌てて元の隠れ場
所へ駆け戻った。
椅子が小さく軋み、窓のカーテンが揺れる。
息を殺したまま、私は莉愛と一緒に再び掃除用具入れのロッカーの中へ
身を潜めた。
扉をそっと閉め、ちょうど目線の高さにある小さな隙間から、
教室の様子をうかがう。
音ひとつ立てたくなくて、呼吸すら浅くなる。
――シーン。
教室は異様な静けさに包まれていた。
時計の秒針の音が、やけに大きく耳に響く。
息を殺しながらも、誰もがこの空気の中で確かに震えているのがわかる。
その時だった。
私が莉愛の方を見ようとした瞬間――
ガララララッ!!!
教室のドアが、勢いよく開いた。
バッと、全員の視線が音の方向へ向く。
空気がピンと張り詰め、時間が止まったように感じた。
莉愛の方に目を向けると、彼女は涙を浮かべ、ガタガタと肩を震わせて
いた。
「どうしたの……?」
小さな声で尋ねると、莉愛は何かを言いたげに口をパクパクとさせ、
震える指で――私の背後を指さした。
ゆっくり、恐る恐る、首を回す。
狭い隙間の向こう、教室の中央。
そこにいた“それ”を見た瞬間、
全身の血の気が一気に引いた。
言葉では言い表せない“ナニか”。
赤、青、黄色――それぞれの色の鼻をつけたピエロが、
それぞれ異なる武器を携えて、
ゆっくりと、楽しげに教室を徘徊していた。
赤い鼻のピエロは、血に濡れたナタを。
青い鼻のピエロは、唸るチェーンソーを。
黄色い鼻のピエロは、巨大なハンマーを。
どの顔も、真っ白な仮面にニタニタと笑ったピエロのペイント。
だが――その目の奥だけは、笑っていなかった。
息をするたびに、胸が痛い。
音を立てたら、気づかれる。
心臓の音すら聞かれてしまう気がして、呼吸を止めた。
腰が抜けそうになる。
もし莉愛が腕を支えてくれていなかったら、私は確実に崩れ落ち、
音を立ててしまっていただろう。
……そのときだった。
ガタッ。
教卓の方から、はっきりと何かが倒れる音がした。
あそこには――ギャル系のグループとつるんでいた、小泉羽菜さんが
隠れていたはず。
ピエロたちの頭が、同時にその音の方向を向く。
赤、青、黄――それぞれ笑顔を貼りつけたピエロが、
ゆっくりとそちらへと歩き出した。
逃げて――!
心の中で叫ぶ。
けれど、声にはならない。
喉が張り付いて、言葉が一音も出ない。
「い゙やぁぁぁぁぁぁーーーーーーっ!!!!!」
羽菜の絶叫が、教室中に響いた。
その直後、ビチャッという、液体が飛び散るような音。
誰も動けない。
誰も叫べない。
ただ、その音が教室に響き渡り――そして、沈黙が戻った。
恐怖で喉が焼ける。
何もできないまま私はただ、隣で震える莉愛の手を必死に握りしめていた。
嫌な予感がしていた。
胸の奥がざわざわと波打ち、鼓動の速さがどんどん増していく。
呼吸は浅く、熱い。
まるで肺の中の空気までもが恐怖で焦げていくようだった。
汗が首筋を伝い、制服の襟元を濡らす。
手は震え、莉愛の手を握る力も入らない。
それでも――見なければ、と思った。
恐怖で動かなくなった脳を必死に動かし、
私は、わずかな隙間から教室を覗いた。
そして、見てしまった。
床に、何かが転がっていた。
見慣れた制服のスカート。
染みだした赤い色。
そして、そのすぐ隣には――
腰から上の胴体と下半身が、あり得ない距離に離れて転がっていた。
それは、羽菜だったもの。
「っ――!!!」
喉の奥で悲鳴が弾けたが、声に出したら最後、次は自分の番だと
直感した。
舌を噛みそうなほど唇を強く噛みしめ、私は必死に、声を飲み込んだ。
体の奥が、冷たい。
全身の血が一気に引いていく。
視界がぐらぐら揺れて、頭が真っ白になる。
私の肩を支えていた莉愛が、それを見た瞬間――ひゅっと息を吸い、
そのまま崩れ落ちるようにして座り込んでしまった。
ガシャッ。
金属のバケツが倒れるような音。
ただそれだけの音が、世界を終わらせる合図のように響いた。
ゆっくりとチェーンソーを持った青い鼻のピエロがこちらを向いた。
ギギギ……と、マスクの中で首をかしげる。
その笑顔は描かれたものなのに、まるで本物のように楽しげだった。
チェーンソーが低く唸る。
ピエロの靴が、ひとつ、床を踏み鳴らす。
あと数歩。
その手が、ゆっくりと掃除用具入れのドアノブに触れた――
その瞬間。
ジジッ……とノイズ混じりのチャイムが鳴った。
【笑鬼さんは殺すのをやめてください。
次のカクレアイはお昼の12時44分に開始されます。
発見者は、3名。皆さん――頑張って、殺されてください。】
教室の空気が凍ったまま、その放送だけが静かに流れていく。
機械的で、感情のない女の声。
それなのに、ひどく楽しそうに聞こえた。
青鼻のピエロは、その言葉を聞くと、ドアノブから手を離した。
一拍の静止。
そしてそのまま何事もなかったかのようにチェーンソーを肩に担ぎ、
ゆっくりと教室を出ていった。
ガチャリとドアが閉まる音。
残されたのは、沈黙と、血の匂いだけだった。
――でも、誰も動けなかった。
ピエロが出ていったのに、息をすることすら、まだ怖かった。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
隣では、莉愛が小刻みに震えながら、口を押さえている。
時間が止まったみたいだった。
けれど、時計の針は確かに進んでいる。
次の“12時44分”へと――。
ふと、誰かの足音がした。
キュッ、キュッ……。
その音だけが、異様なほど大きく響く。
ふらふらと、糸の切れた操り人形のような足取りで歩いてきたのは――
羽菜と仲が良かった地雨叶(ちう かなう)さんだった。
顔色は真っ白で、瞳は焦点を失っている。
それでも彼女は、何かに導かれるようにまっすぐ教卓の方へ歩き、
血の海の中で倒れている“羽菜”の元にたどり着いた。
「はな……ちゃん……?」
掠れた声で、そう呟いた。
そして、制服のスカートが真っ赤に染まるのも構わずに、
切り離された羽菜の上半身にすがりついた。
「うそ……うそだよね……? ねぇ羽菜ちゃん、起きてよ……
お願いだから……っ!」
泣き声が、教室の中にぽつりと落ちた。
その声は、まるで何かが崩れる合図のように響いた。
誰かが鼻をすする音を立てた。
そしてまた一人、また一人と、隠れていた生徒たちが震える手で
カーテンの裏や机の下から這い出してくる。
目を覆う子、口を押えて泣き崩れる子、信じられないように羽菜の方を
見つめて立ち尽くす子。
――まるで、地獄に迷い込んだようだった。
私も、莉愛と一緒に掃除用具入れから出た。
足が鉛みたいに重くて、思うように動かない。
視界の先には、さっきまで
「変なイタズラだね」と笑っていた羽菜の、見るも無惨な姿。
床に広がった赤が、光を反射してどろりと黒ずんでいる。
鉄のような、生ぬるい匂いが鼻を突いた。
教室の床を染めるその色が、じわじわと靴の先に近づいてくるような
錯覚がした。
「……あ……ぁ……」
言葉にならない声が漏れた。
気づけば、私は呆然とその光景を見つめていた。
現実味がなかった。
夢であってほしいのに、鼻にこびりつく血の匂いがそれを否定する。
喉の奥が熱くなった。
視界が滲み、呼吸が苦しい。
次の瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきた。
「うぇ……っ……!」
思わず口元を押さえてしゃがみ込む。
胃がひっくり返るような感覚。
目の前がチカチカして、涙が勝手にあふれ出る。
「み、美咲っ、大丈夫……!?」
莉愛が焦ったように私の背中をさすった。
その手の温かさが、かろうじて私を現実に繋ぎとめてくれた。
なんとか吐くのはこらえたけど、震えは止まらない。
歯がカチカチと鳴る音が、自分でもはっきり聞こえる。
教室の中では、まだ誰かがすすり泣いていた。
窓の外では、いつもと変わらない青空が広がっている。
だけど、その空が、今はどうしようもなく遠く感じた。
もう――日常なんて、どこにもなかった。
その時だった。
すすり泣く声と、血の匂いが充満する教室の中で――
ひとり、静かに立ち上がる影があった。
星宮天音ちゃん。
学級委員で、誰よりも冷静で、誰よりも皆に信頼されている彼女。
その目の前には、真っ赤に染まった教卓。
そこに立った彼女の姿は、まるで絶望の海の中に咲いた白百合のように
見えた。
自然と皆の視線が天音に集まる。
嗚咽も、震える声も、少しずつ静まっていった。
天音は、血の滴る教卓に両手を置き、一度だけ深く息を吸い込むと、
はっきりとした声で言った。
「……皆、今は9時40分。次のゲームまで、あと3時間もない。」
その声は驚くほど落ち着いていた。
震えひとつ見せず、冷静に状況を整理していく。
「今のうちに購買で食料を確保しておくべきだと思う。
教室から出てはいけないなんて指示はされていないし、
“学校内なら安全”という意味なんだと思うわ。
それに……、小泉さんも、このままじゃ可哀想よ。」
静寂の中で、彼女の声だけが澄んで響いた。
その瞬間、どうすればいいか分からず、ただ震えていた私の中に、
小さな“軸”のようなものができた気がした。
あぁ、この人は強い――そう思った。
私たちは天音の指示に従い、
羽菜の身体――いや、“羽菜だったもの”をそっと持ち上げた。
誰も言葉を発しなかった。
布を通して伝わるその重みと冷たさが、現実を突きつけてきた。
隣のB組へと運び込み、机を並べてベッドのようにし、顔と切断面が
見えないようにタオルを掛ける。
手を合わせた時、血の匂いとチョークの粉の匂いが混ざって、
吐き気を誘うような空気が漂った。
――「どうか次は、誰も死にませんように。」
誰が言ったのか分からないその一言に、全員の心が一瞬、沈黙した。
それから、私と莉愛は購買へ向かった。
廊下を歩くたび、靴の裏がキュッと鳴る。
それが血を踏んでいるような錯覚を起こさせて、気持ち悪かった。
3−Aは全員で27人。
そして―― 一人減って、今は26人。
廊下を歩きながら、私は考える。
あのピエロは何?
どうしてこんなことになってるの?
カクレアイって、何?
頭の中がぐちゃぐちゃになって、考えるたびに現実感が薄れていく。
そんな時、ふと隣の莉愛が小さく息を吐いた。
涙の跡が残る頬をぬぐいながら、私は彼女にそっと声をかけた。
「莉愛……大丈夫……?」
「……大丈夫、って言ったら嘘になる。でも……美咲がいるから、
なんとか……。」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
「そっか……」
としか返せず、私はそっと、彼女の手を握った。
指先が冷たい。
でも、その冷たさが“生きてる”証みたいで、離せなかった。
窓の外を見上げると、
青空の下で、サラリーマン風の男性が足早に歩いているのが見えた。
……当たり前の日常。
あの人たちは、何も知らない。
この学校の中で、こんなことが起きてるなんて、誰も。
その現実に触れた瞬間、私の心に、ほんの少しだけ希望が戻ってきた。
「ねぇ、莉愛……これ、警察に言ったら助けてもらえるかな?」
私がそう言うと、莉愛は一瞬ぽかんとした顔をして――次の瞬間、
ぱっと顔を輝かせた。
「え……そうじゃん! そうだよ!!
スマホがある! 110だっけ? なんで気づかなかったんだろう!」
涙の跡が残る顔に、笑顔が戻った。
キラキラと、希望に満ちた表情。
震える手でスマホを取り出し、ロックを解除しながら、
「きっとこれで助かるよ!」と嬉しそうに笑った。
……まさか、そのわずかな希望すらも、残酷に踏みつぶされるなんて、
その時の私達は、まだ知らなかった。
耳にスマホを当てた莉愛の明るい笑顔は、数秒経つごとに
曇っていった。
はじめは、電波が悪いだけだと思っていたのだろう。
けれど、耳に押し当てた手がじわりと震えはじめ、唇が小さく震えた。
「……繋がんない。繋がんないよ!!!」
震える声でそう叫ぶと、莉愛はスマホを耳から離し、画面を何度も
タップした。
「嘘!?私がかける!」
私は慌ててスカートのポケットからスマホを取り出した。
手が汗で滑る。
受話器のアイコンをタップし、震える指で「1」「1」「0」と
打ち込む。
通話ボタンを押すと、“トゥルル…”と呼び出し音が鳴った。
……が。
――ブツッ。
次の瞬間、嫌な音がして、画面が一瞬で真っ暗になった。
「……え? なにこれ……なんで!?」
何度もタップしても反応しない。
電源ボタンを押しても、画面は光らない。
まるで、スマホそのものが“死んだ”みたいに。
心臓が早鐘を打つ。喉の奥が焼けつく。
最後の希望さえも打ち砕かれた私は、パニックになった。
「なに? なんで!? なんでみんな冷静なの!?
人が……人が死んでるんだよっ!? おかしいと思わないの!?
逃げようと思わないの!? ねぇ、なんでっ!? 早く逃げようよ!!
早くっ……! 殺されちゃうよ!!!! 莉愛ぁ!! ねぇ動いてよ!!!
なんで? なんで誰も動かないの!?!?」
叫ぶ声が、廊下に反響して自分の耳に返ってくる。
私は声を枯らして叫んだ。
でも――誰も動かない。
クラスメイトたちは、立ったまま、ぼんやりと私を見ている。
私がひたすら叫び続け、喉が枯れかけてきた頃、狛江南くんが
ぼんやりと私を見つめていたその目から焦りを取り戻したように、
慌てて駆け寄ってきた。
「……藤森落ち着け!」
彼の声は低く、しかしどこか確かな優しさを含んでいた。
私はまだ叫びたい衝動を抑えきれずに震える手で胸を押さえていたが、
南くんは迷わず私の背中に手を回し、しっかりと支えてくれる。
彼の手のぬくもりが、冷たい恐怖の渦に包まれた私の心に、わずかに
安心を注いだ。
「大丈夫だ。絶対藤森は死なせない。」
彼の声は穏やかで、少しだけ震えていたかもしれない。
けれどその声に、私は自然と耳を傾けずにはいられなかった。
その瞬間、莉愛も私の前に現れた。
顔にはまだ恐怖の影が残っていたけれど、私を見つめる瞳は
揺らいでいなかった。
両手で私の腕を握り、優しく力を込めて落ち着かせようとしてくれる。
「美咲、大丈夫だよぉ…!ごめん、ごめんね。
不安煽るようなことばっかしちゃってた。美咲だって怖いよね。
大丈夫、大丈夫だから……!」
その言葉に、私の全身にようやく力が戻り始めた。
私は深く息を吸い込み、涙で視界がにじむのを感じながらも、
必死に震える声で答えた。
「……二人とも、ごめん。私、どうかしてた……。」
南くんは首を横に振り、微笑みを浮かべながら言った。
「いや、藤森も無理すんな。こんな状況なんだから、
パニクるのは当然だろ。だから……何かあったら、俺を頼れ。」
その言葉の端々に、優しさと覚悟が混ざっているのが伝わった。
私は胸がいっぱいになり、言葉にならない感謝で震えた。
次に莉愛も、少し照れくさそうに笑いながら、
でも真剣な眼差しで言った。
「わっ、私のことも頼ってね?私、自分で言うのもなんだけど、
美咲の一番の親友だと思ってるから!!!!」
その強引さと、でも真っ直ぐな優しさに、私は思わず笑ってしまった。
肩の力が抜け、ようやく涙をこらえることもやめ、ぽろぽろと頬を
伝う。二人の存在が、胸の奥に暖かく染み込む。
「……うん。二人とも、本当にありがとう」
そう言ったとき、廊下全体の空気が少しずつ変わるのを感じた。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出すように、
周りのクラスメイトたちもまた歩き出した。
私の心の中で、恐怖と混乱の渦はまだ消えていないけれど、
二人の存在があれば、少なくとも一歩を踏み出せる——そう思えた。
どれだけ絶望的な状況でも、誰かがそばにいてくれるだけで、
心は確かに救われるのだと、体中で実感していた。
と、その時だった。先頭を歩いていた天音ちゃんが、
ゆっくりと私たちのいる列の後ろまでやってきた。
彼女の顔には少し疲れと戸惑いが混ざった表情があり、眉は下がり、
口元はぎこちなく笑おうとしていた。私たちの間に立つと、静かに、
でもはっきりとした声で話しかけてきた。
「藤森さん……さっきは声をかけることもできなくて、ごめんなさい。私も……軽いパニックになっちゃって、藤森さんのことを気にかけて
あげられなかった」
その言葉に、一瞬胸がぎゅっと締め付けられた。
けれど、私は咄嗟に手を振りながら笑顔を作った。
「そんなの全然……!皆がまともでいられるのは星宮さんのおかげ
だよ……!本当にありがとう……。でも、一人で抱えすぎないでね。
同じクラスメイトなんだし、助け合っていこう?」
それは、紛れもなく私の本心だった。
あんな恐ろしい状況で、ひとりで抱え込む必要なんてない。
恐怖や不安は、分け合えば少し軽くなるのだから。
天音ちゃんの目に、ぽろりと涙が光った。
「……藤森さん、ありがとう。その言葉で、どれだけ救われるか……」
彼女はいつもどんなときでも、責任感が強くて、クラス全員のことを
考えすぎてしまうタイプだ。
だから、きっと自分の恐怖を押し込めて必死に耐えていたのだろう。
その瞬間、自然に笑顔がこぼれた。
「あ、私のこと、藤森じゃなくて美咲って呼んで?
そのほうが慣れてるし!」
莉愛も負けじと手を振りながら言った。
「私も私も!気軽に莉愛〜って呼んで!」
呼び方なんて、この状況ではどうでもいいことだったかもしれない。
それでも、私は普通の会話がしたかった。
恐怖や絶望の中で、ほんの少しでも日常の感覚を取り戻したかった。
「本当?じゃあ、美咲と莉愛も、私のことは天音って呼んで?」
「いいの?やった!」
三人で笑い合ったその瞬間、
私は胸の奥の力が少し抜けて、ほっと息をついた。
まるで、重くて冷たい空気の中に小さな光が差し込んだような
感覚だった。
雑談は自然に続いた。
小さな笑い声や、軽い冗談が飛び交う。
恐怖で張り詰めた神経はまだ少し残っているけれど、その瞬間だけは、
確かに「いつも通りの教室の空気」が戻ってきたように感じた。
気づけば、私たちはいつの間にか購買に到着していた。
店先には、普段と変わらない景色が広がっている。
色とりどりのパッケージ、商品棚の整列したライン、そして窓から
差し込む柔らかい光。
その光景に、私は小さな安堵を覚えた。
恐怖と絶望の中でも、人はこうして一歩ずつ、日常に戻ることができる
——そう思えた。
購買で、天音ちゃんは別のクラスメイトに声をかけられると、
軽く手を振りながら私たちのもとを離れていった。
「美咲、何にする?私はおにぎりにしよっかなぁ。
次いつ取りに来れるかわかんないし、4個くらい持ってっちゃお〜」
莉愛は小さく肩をすくめながら、少し照れたように笑う。
その表情を見て、思わずこちらも笑顔になった。
「私はパンかなぁ〜。」
私はそう言いながら、陳列棚を見渡した。
どれも普段なら気軽に手に取れるものなのに、今日の出来事のせいか、
ひとつひとつ慎重に手を伸ばしてしまう自分がいた。
結局、私はサンドイッチと緑茶を一つずつ手に取った。
手のひらに重みを感じながら、少しずつ日常の感覚が戻ってくるような
気がした。
一方、莉愛はおにぎりコーナーに行き、明太子のおにぎりとエビマヨの
おにぎりを抱えて戻ってきた。
両手いっぱいのおにぎりを見て、思わず「食いしん坊だ〜〜」と
声をかけると、彼女はくすっと笑った。
「これ、皆お金払ってないけど良いのかな……」
莉愛が小さく呟く。その声には、少しだけ不安が混じっていた。
「確かに……。一応払っておく?」
私は頷きながら、レジを見た。
今日の混乱で、誰もお金のことを気にしていないけれど、
やっぱりちゃんとしないと落ち着かない。
「そうしよ!」
莉愛も小さく頷く。
二人でレジ台に代金を置き、私たちはそっと購買を後にした。
すでにほとんどのクラスメイトは教室に到着しているようで、廊下を
歩くと、前方のA組からざわめき声が聞こえてきた。
誰かが笑ったり、何かを囁いたりする声。
それは、いつもより落ち着かないざわめきだった。
「どうしたんだろ……?」
思わず呟きながら、私は恐る恐る教室の扉を押し開けた。
中に入ると、黒板の前に人だかりができていた。
ざわめきの中心をかき分けるようにして前に進むと、黒板には
見慣れない、流れるような流麗な文字が、ずらりと並んでいた。
手書きの文字は、どこか冷たく、そして意図的に整えられているように
見えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
【カクレアイゲーム】
参加者の皆様は学校内の何処かに隠れてください。
① 笑鬼さんは決められた数の参加者を殺してください。
② 参加者の皆様は笑鬼さんに見つかると殺されます。
③ このゲームは、3−Aの皆様が✗✗人になるまで続きます。
④ 3−Aの皆様の中にワルモノがいます。
⑤ ワルモノを見つけ出し、見事退治した勇者様には特別に誰か一人と
このゲームをクリアする権利が与えられます。
⑥ このゲームは途中リタイア不可となっております。
⚠️笑鬼さんに見つかってしまった参加者の方は、殺される前に逃げる
ことをオススメいたします。
――――――――――――――――――――――――――――――――
肝心な③番の人数の部分は、故意的に誰かが消したかのように
ぐちゃぐちゃになっていて、読み取ることができなくなっていた。
黒板に書かれたその文字を目にした瞬間、背筋が凍るような感覚が
走った。
心臓がどくんと大きく跳ね、言葉を失いそうになる。
「なんだよ、これ……」
南くんが隣で呟いた。
彼も黒板の文字をじっと見つめ、眉をひそめている。
「こんなルール、理不尽にもほどがあるでしょ……」
莉愛も小さく呟いた。
「ワルモノって誰のことだ……?なんでワルモノなんだ?」
南くんの声には不安が滲んでいる。
でも、怖いのはそこじゃない。
私は、黒板に書かれた文章の量に釘付けになった。
「こんなの……書く時間なんか無かったはず……」
そう。
私たちが購買に行って戻ってきたのは、多く見積もっても10分程度。
それに加え、この一本道の廊下。
すれ違った人なんか一人もいなかった。
この量の文章を、粗くもない、むしろ丁寧に整えられた文字で、
チョークで一気に書き上げる。
しかも、私たちが通り過ぎる前に、その場を去らなければならない。
たった10分で……?
物理的に不可能だ。
胸の奥で、何かがぎゅっと締め付けられる。
背後からはざわめきと小さな動揺の声が聞こえ、私の手のひらは
じんわりと汗で湿っていく。
心臓の鼓動が耳元で響くように感じられ、喉が乾いた。
「これ……一体、誰が……」
言葉が途中で止まり、頭の中がぐるぐると回る。
理屈では説明できない恐怖。
誰かの悪意、計算された罠、そして……まだ誰も理解していないこの
状況の異常さ。
南くんが私の肩に手を置き、そっと押してくれた。
「藤森……落ち着け。とにかく、今は……考えすぎるな」
莉愛も私の隣に寄り添い、小さく頷いている。
その温もりが、かすかな安心感をくれる。
でも、安心と恐怖は、紙一重だった。
黒板に書かれた文字は、ただの文章ではなく、まるで私たちを監視し、
試すために意図的に置かれた標的のように見えた。
「もうヤダ!!誰か助けてよぉーッ!!!!!!」
その叫び声は、教室の端から端まで響き渡った。
声の主は、このゲームが始まってからずっと一人でいる、
佐倉恋雪ちゃんだった。
恋雪ちゃんの甲高い声は単なる泣き声ではなく、心の奥底から
絞り出された絶望そのもの。
彼女の声は瞬く間に教室中の空気を変えた。
その瞬間、私の体にも冷たい衝撃が走る。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、視界が一瞬、揺れるようにぼやけた。
南くんも、握りしめた拳を小さく震わせている。
莉愛は私の手をぎゅっと握りしめたまま、言葉もなく、目だけで何かを
訴えていた。
教室のあちこちから、小さな声が重なり始めた。
「死にたくないよ……」
「どうしよう、誰か……!」
「ワルモノって誰だよ…?お前か!?」
「もうやめてよぉ……!」
すすり泣く声、嗚咽、そして誰かを責める声。
それらが渾然一体となり、教室全体を不安と恐怖の渦で包み込む。
恐怖は伝染する、と聞いたことがあるけれど、まさにその通りだった。
目の前のクラスメイトたちはただ立っているだけでも、恐怖で手足が
震えているのが分かる。
呼吸が浅く、声がうわずり、視線が定まらない。
恋雪ちゃんの泣き叫ぶ姿を見て、私は無意識に息を詰めた。
心臓が早鐘のように打ち、手のひらの汗がじっとりとにじむ。
教室全体の不安は収まらない。
むしろ広がっていく一方だ。
誰かが泣き、誰かが声を震わせ、誰かが硬直したまま動けない。
まるで恐怖という見えない波が、私たちの心に押し寄せ、逃げ場を
奪っていく。
その波の中心に、佐川恋雪ちゃんの絶望の叫びがある。
教室の空気は、もはや日常の教室とは似ても似つかないものに
変わっていた。
壁にかかる時計の針の音さえ、恐怖を煽るかのように鋭く響く。
私は、思わず声を上げたくなる衝動に駆られた。
けれど、言葉にしたところで、恐怖が消えるわけではない。
恐怖は伝染する。
そして今、この教室のほぼ全員が、その恐怖の渦の中にいる――。
その時、近くにいた佐倉望くんが、突然南くんの胸ぐらを掴んだ。
「っ……!」
南くんは思わず目を見開き、固まった。
望くんの手が胸に食い込み、指先が制服の生地を押し込む感触が
伝わる。
私は慌てて望くんの手首を握り、必死で引っ張った。
「やめて、望くん!離して!」
しかし、望くんの力は想像以上で、手首を掴む私の力などまるで
及ばない。
望くんは胸ぐらを握ったまま、南くんの顔に鼻先が触れそうな距離まで
ぐっと近づき、低く、しかし震えるような声で言った。
「ワルモノ…って、お前じゃないよな?」
その瞳には恐怖と疑念が入り混じっている。
「は……っ?」
南くんは顔をしかめ、言葉を発することもできず、ただその場で
硬直していた。
「ちょっ!やめなよ!」
と莉愛が必死に望くんの背中を引っ張る。
「手、離してよ!!」
と私も声を荒げて引っ張るが、望くんの力は強く、びくともしない。
息が詰まるような緊張感が教室に充満する。
「お前…いつも一人でいるよなぁ……? 怪しいんだよ。
目つきも悪りーしよォ!」
望くんの声は怒りと恐怖が混ざり合い、強い決意を帯びている。
南くんの顔が僅かに青ざめ、思わず目を細めるが、言葉は出ない。
その瞬間、望くんは勢いよく南くんの頬を殴った。
「ぐっ……!」
南くんはその衝撃で地面に崩れ落ち、制服の袖が擦れて小さな音を
立てる。
私は思わず駆け寄り、叫んだ。
「大丈夫!?……っ、血が…!」
南くんの鼻から血がじわりと滲んでいるのが見える。
莉愛もすぐに駆け寄り、南くんを支えながら顔を覗き込む。
南くんは表情を変えずに、しかしわずかに肩を震わせながら、
袖で鼻血を拭った。
「……ああ、大丈夫だ。」
その声は落ち着いているが、手の微かな震えから、心中の動揺が
伝わってくる。
「南くんがワルモノだって決まったわけじゃないのに殴るなんて…!
あんたこそワルモノじゃん!!!」
と莉愛が叫び、拳を握りしめる。
私も思わず声を荒げる。
「そうだよ!根拠もないのに殴るなんて、どういうつもりなの!?」
望くんは私たちを鋭く睨みつけ、唇を引き結んだまま吐き捨てるように
言った。
「はぁ?俺は死にたくねーんだよ!怪しいやつは全員殺す。」
その瞳には冷たい光が宿っており、誰も逆らえない迫力があった。
言い終わると、望くんは踵を返し、そのまま教室を出ていき、教室には
重苦しい沈黙が訪れた。
望くんの去った後、空気は一気に張りつめ、誰も声を出せなかった。
南くんはわずかに震えながらも立ち上がり、制服の袖で鼻を押さえた
まま、無表情を装っている。
しかし、肩の微かな震えや息の乱れが、内心の動揺を物語っていた。
教室のあちこちでは、さっきまで泣き叫んでいた生徒たちが互いに
目を合わせ、不安そうにざわめいている。
誰も次に何が起こるか分からず、恐怖に押しつぶされそうに
なりながら、身を固くしている。
次に何が起こるか、誰も予想できない恐怖が、ゆっくりと、
しかし確実に私たちの心を締め付けていた。
「ちょっと水道行ってくるね」
そう莉愛に一声かけ、まだ少し動揺を隠しきれない様子の南くんを
連れて、私は教室を出た。
廊下は静まり返っていて、先ほどまでのざわめきが嘘のように
消えていた。
どこか遠くで風が窓を揺らす音だけが響く。
水道の前に立つと蛇口をひねり、冷たい水をハンカチに染み込ませる。
流れ出る水の音がやけに大きく聞こえた。
私は濡らしたハンカチを手に、南くんの方を向く。
「じっとしててね」
そう言って、彼の頬についた血をそっと拭い取る。
乾きかけた血がハンカチに滲むたびに、胸の奥が痛くなった。
南くんは少し目を細め、
「ハンカチ、汚しちまって悪いな。ありがとう。」と言った。
その整った顔はいつものように無表情で、淡々としている。
けれど、近くで見るとその手が小刻みに震えているのがわかった。
無理もない。
ついさっき、あんなにも強い悪意を、それも真正面からぶつけられた
のだから。
どれだけ平静を装っていても、心が無傷でいられるはずがない。
気づけば私は、自然と南くんの頭に手を伸ばしていた。
優しく撫でるように、指先で髪を梳く。
自分でも驚くほど自然な動作だった。
「……?」
南くんが目を丸くし、首を少し傾げる。
その表情に我に返った私は、慌てて手を離した。
「わっ、ああああ!!ごめん!ほんとごめん!咄嗟に出ちゃって!!」
顔が一気に熱くなるのがわかった。
私の慌てぶりを見て、南くんは一瞬ぽかんとした後、
ふっと小さく笑った。
「藤森は優しいな。」
その言葉が、思いのほかまっすぐで、胸の奥に落ちていった。
一瞬、息が止まる。
心臓が跳ねた音が自分でもはっきり聞こえる。
「ど、どうした?顔、すげぇ赤いぞ。ストレスから来る熱とかか?」
南くんは本気で心配しているようで、また首を傾げている。
その真顔が、余計にずるい。
私はどう答えたらいいのかわからず、ただ両手をわたわたと振るしか
なかった。
「そ、そういうんじゃないから!!」
そのとき、教室の方から足音が近づき、莉愛がひょこっと顔を出した。
「なによお二人さん!ラブラブじゃ〜ん!!」
いたずらっぽく笑う莉愛の声に、私はますます真っ赤になって叫んだ。
「ち、違うってば!!ほんとに誤解!!!!」
そんな私の姿を見て、莉愛はけらけらと笑い、南くんは相変わらず
首を傾げたまま。
ほんの束の間だったけれど、教室の中にあった重苦しさが、少しだけ
遠のいた気がした。
3人はそのまま教室に戻り、各自が購買で買ってきたお昼ご飯を
机の上に並べた。
教室の中は、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだったが、
それでも空気のどこかに重さが残っている。私たちはそんな空気を
振り払うように、できるだけ明るい声で話し始めた。
私はサンドイッチを取り出し、袋を開けた。
莉愛は明太子のおにぎりを手にしていて、包装を破ると同時にふわっと
磯の香りが漂う。
そして南くんは──まるで当たり前のように、素知らぬ顔で購買の
レトルトカレーの封を切り、パックご飯にかけて食べ始めた。
その光景を見た瞬間、莉愛が思わず吹き出した。
「それ絶対、今の状況に向いてないでしょ!」
スプーンを口に運んだまま、南くんは首を傾げた。
「……美味いぞ?」
その一言で、今度は私まで堪えきれずに吹き出してしまった。
「「そういうことじゃなくて…!」」
2人で声を揃えてツッコミを入れると、南くんはぽかんとした表情で
私たちを見つめた。
あまりに真顔だから、余計におかしくなってきて、莉愛はおにぎりを
吹き出さないように笑いを堪えようとしている。
「南くんのそれって、天然?」
私がそう聞くと、南くんは真剣な表情のまま小さく首を傾げ、
「水か?水はいろはすだ。」と返した。
「そういうことじゃないってば!!」
莉愛はついに爆笑しながら机を叩いた。
私も笑いながら、
「南くんって、割と本気で天然だよね……」と呟く。
南くんはそんな私たちの笑い声を聞きながら、変わらず無表情で
カレーを食べ進めていた。
スプーンを口に運ぶたび、どこか無防備で少し不器用なその姿が
なんだかおかしくて、そして少しだけ愛おしかった。
恐怖に覆われた数時間の中で、こんなふうに笑える時間があるなんて、
思いもしなかった。
笑いながらも、心のどこかで──この穏やかな瞬間が、どうか少しでも
長く続きますようにと、私はそっと願っていた。
だが……。
【――3分後にカクレアイが開始されます。今回の発見者は3名です。】
あの放送を聞いた瞬間、教室の空気が一瞬で裂けたように感じた。
机と机のあいだをすり抜けるようにして、誰かが立ち上がり、
走り出す。
床がきしむ音、靴底が床に叩きつけられる音。
先生の気配はなく、廊下の方へ一斉に人が流れていく。
莉愛が私にしがみついて、震える声で
「美咲、怖いよ……」と呟く。
私はとっさに彼女の手を握り返した。
手のひらが冷たく、指先が震えているのが伝わる。
頭の中は真っ白で、いくつもの「?」がぐるぐると渦を巻いていた。
(どこに隠れたらいいの? 机の下?渡り廊下?
屋上は遠い……もし見つかったらどうする?)
そのとき、隣を歩いていた南くんが、淡々と、でもはっきりとした声で
言った。
「藤森、皆川。俺たちも隠れよう」
その一言で、心の中の雑音が少しだけ止まった。
南くんの声は冷静で、無駄がない。
彼が言った瞬間、私の頭にあった不安の断片が一つ合わさって、
行動へと向かう力に変わる。
「う、うん!」
と私は頷き、莉愛の手を強く引きながら教室の出口へ向かう。
廊下にはすでに何人かが走って行った跡があり、かすかに靴の跡が
残っている。
壁にもたれたまま固まっている子、
顔を真っ赤にして息を整えている子。
皆それぞれのやり方で恐怖に対処している。
歩きながら、私は隣の南くんに訊いた。
「隠れるって言っても……どこに隠れたらいいのかな」
南くんは一瞬目を細め、周囲を鋭く見渡した。
教室の外の廊下には、すでに生徒が散らばり、思い思いの方向へ
走っていく。
放送の声が遠くでまだ反響している。
「とにかく、人の多いところは避けよう。
死角を作れる場所を探す。扉の開け閉めで音が鳴る場所は危険だ」
彼の言葉は簡潔で冷静だった。
私はそれだけで少し安心する。
南くんが考えているのなら、この場でうろたえるより彼の後に
ついていくべきだと思った。
廊下を足音を忍ばせて歩く私たち三人。
遠くの方で、誰かの足音やドアの閉まる音が小さく響いている。
誰も喋らないまま、ただ緊張だけが肌に張りついて離れなかった。
そんなとき、莉愛がふと立ち止まり、私の制服の裾をくいっと
引っ張った。
「……ねぇ、美咲。ここ、良いんじゃない?」
彼女が指さした先にある銀色のプレートには、はっきりとこう書かれて
いた。
「女子更衣室」
私は一瞬、目を瞬かせる。
確かに人が来なさそうな場所だし、奥にはロッカーも多い。
隠れるにはちょうどいいかもしれない。
けれど、隣にいた南くんは、プレートを見てわずかに眉をひそめた。
「……悪りぃ。俺は男だから、違うとこ隠れる。」
そう言って、くるりと背を向けようとする南くん。
しかし、私は反射的に彼の襟をむんずと掴んでいた。
莉愛も同時に袖をつかみ、両側から動きを封じるように引き止める。
「ちょ、ちょっと!今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?
今日、私たち以外に学校に来てる人いないんだから平気だって……!」
「そーそー! ていうか、いまさら男女とか気にしてたら
命がいくつあっても足りないよ!!」
莉愛まで真剣な顔で言うから、南くんは明らかに困ったようにため息を
ついた。
「……女子更衣室に入るの、人生で一度も経験ねぇんだけど。」
「いやいや経験あってたまるかっての!」
と、莉愛が小声で茶化すように言い、
私の肩を小突いた。
「もー莉愛もっと真面目に!」
という私を横目に、南くんは観念したように頭を掻いた。
「……わかった。背に腹は変えられねぇな。」
「そゆこと〜!」
と莉愛が小声で返し、私たちは急いで更衣室の扉を開けた。
中は薄暗く、外の明かりがわずかに差し込む程度。
制服や体操服の匂いがほんのり残っていて、使われていないロッカーが
整然と並んでいる。
床は冷たく、外の喧騒から切り離されたような静けさがあった。
「……ここ、ほんとに誰も来なさそうだね。」
私が呟くと、莉愛が頷き、南くんは周囲を見回してから、低い声で
言った。
「ああ。気配もしねぇし、案外穴場かもな。」
心臓の音が、自分でもうるさいくらい響いていた。
誰も来ないで、と祈るように。
私は唇を噛みしめながら、目の前の薄闇を見つめた。
「私はここ隠れるね!」
そう言って莉愛が指さしたのは、壁際にある中型のロッカー。
扉を開けると、中は思ったよりも狭くて暗かった。
それでも莉愛は迷うことなく中に体を滑り込ませ、ギシッと
音を立てながら身を縮めた。
最後に扉の隙間から小さく親指を立てると、ぱたんとロッカーが
閉まる。
残されたのは、私と南くんの二人だけ。
薄暗い更衣室の真ん中で、互いに顔を見合わせたまま、
しばらく動けなかった。
「……どうする?」
「どうしようね……」
そのとき。
――キィィィン……。
あの、気味の悪いチャイムが、静寂を引き裂くように鳴り響いた。
鼓膜の奥がじんと震える。
全身の血が一瞬にして冷たくなった。
【それでは、スタートです!】
明るく、どこか楽しげな声がスピーカーから流れた瞬間、心臓が喉まで
競り上がった。
その直後、反射的に南くんが私の腕を掴み、目の前のロッカーの扉を
引く。
「入れ!」
言われるがまま、私はロッカーの中へ体を押し込んだ。
そのまま、南くんも続いて中に入ってきた。
扉が閉まると同時に、金属の“カチャッ”という音がやけに重く響いた。
狭い。
想像以上に、狭い。
南くんの肩と私の肩が触れ合い、吐息が頬にかかるほどの距離。
顔を向けたら、すぐそこに彼の横顔がある。
息を飲む音さえ響いてしまいそうで、私は慌てて顔を逸らした。
「……咄嗟に同じとこ入っちまった。わりぃ。」
耳元で低く囁かれた声が、鼓膜を震わせた。
距離が近すぎて、声が直接心臓に届いたみたいに感じる。
背中まで一瞬で熱くなる。
「だ、大丈夫。むしろ……心強いから!」
自分でも驚くくらい声が震えていた。
視線を合わせる勇気なんてなくて、ただ俯いたまま、胸の前で両手を
ぎゅっと握りしめる。
ロッカーの中は暗くて、空気が薄い。
けれど、彼の体温だけが近くにある。
その温もりが、怖さと恥ずかしさを同時に膨らませていく。
外では、何かが軋むような音がかすかに響いた。
誰かの足音――それとも。
私は息を止め、南くんの袖をそっと掴んだ。
どうか、見つからないで。
どうか、この音が通り過ぎますように――。
勢いよく――まるでドアが吹き飛んだのではないかと思うほど
荒々しい音が、更衣室の静寂を破った。
ガンッ!
その一撃でドアが壁にぶつかり、金属の高い音が反響する。
私は反射的に肩を跳ねさせ、ロッカーの中で息を詰めた。
すぐ隣で、南くんの体が一瞬びくりと動くのが分かった。
けれど彼はすぐに呼吸を整え、眉間に深い皺を寄せる。
ロッカーの外に――誰かがいる。
ギシ……ギシ……と、床を踏みしめる音が響いた。
誰かがゆっくりと歩いている。
まるで音をわざと立てるように。
その一歩ごとに、ロッカーがわずかに震える。
私は喉の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
息を吸うのが怖い。
肩の奥に力が入り、背中がこわばる。
――見られている。
扉の向こうに視線を感じた。
ロッカーの扉を隔てているはずなのに、
その視線はまるで皮膚をなぞるように生々しかった。
掃除用具入れのような隙間もないロッカーだから、外の様子はまったく
見えない。
けれど、見えなくても分かった。
今、そこにいるのはあのピエロだ。
あの異様な存在感。
空気がひりつくほどの圧迫感。
辺りに漂う、甘ったるくて鉄の匂いが混ざったような、吐き気のする
匂い。
――間違いない。
南くんも同じことを悟ったのだろう。
私と目が合うと、そっと人差し指を唇に当てた。
しーっ。
その仕草だけで、心臓が一段と強く脈打つ。
音を立てちゃいけない。
息を吸っても、吐いても、空気が揺れる。
私は唇を噛みしめ、ただ頷いた。
涙が出そうになるのを必死に堪えながら、息を止める。
……外で、何かが動いた。
床を擦るような音。
金属がコツコツと叩かれる音。
まるで“探している”ようだった。
ゆっくりと、更衣室を這うように、その音は少しずつ近づいてくる。
どく、どく、どく……
心臓の音がやかましい。
まるで鼓動そのものが“ここにいる”と告げているようで、怖くて怖くて
たまらなかった。
全身から汗が吹き出し、背中を伝うあの感覚。
ロッカーの中の空気は重く、呼吸がうまくできない。
目を閉じても、暗闇の奥であの笑い顔が浮かぶ気がした。
――どうか、通り過ぎて。
――どうか、見つからないで。
私は祈るように、震える指先で南くんの袖を掴んだ。
彼の体温が、唯一、現実をつなぎ止めてくれる。
そしてそのとき――。
コン……
ロッカーのすぐ隣で、何かが当たる鈍い音がした。
私は思わず、息を止めたまま目を見開いた。
ロッカーの外から、ギィ……バタンと、金属の開閉音が響く。
一つ、また一つ。
間違いない――“あれ”は今、順番にロッカーを開けていっている。
しかも、その方向は奥の莉愛のロッカーではなく、私たちの方へ。
手前から、着実に――確実に――近づいてきている。
ガチャ。バタン。ガチャ。バタン。
そのリズムが、まるでカウントダウンのように響く。
私の頭は真っ白だった。
(どうしよう、見つかる。絶対に見つかる。)
その思いだけが、鼓動の音と混ざって頭の中を支配していた。
息が浅くなる。
胸が痛い。
呼吸を殺そうとしても、喉の奥が勝手に震えて空気を求めてしまう。
そのとき、南くんの腕がそっと伸びてきて、私を抱きしめた。
「……大丈夫だ」
――とでも言いたげに。
けれど、背中越しに伝わる彼の鼓動も、私と同じように速く、
不安定だった。
そして――。
ガチャ。
真横のロッカーが開いた。
鉄の軋む音とともに、外の空気が一瞬、私たちの隠れている扉の隙間に
入り込む。
鼻を刺すような甘い臭い。血と鉄の匂い。
心臓が、爆発しそうだった。
(もう、終わりだ。)
そう思った瞬間――。
ドンッ! ドンドンドンッ!
更衣室の奥の方で、何かを力任せに叩く音が響いた。
音は甲高く、壁に反響する。
その直後――。
「このバカピエロ!!!
私の親友殺すなんて、絶対許さないから!!!」
莉愛の声。
怒鳴るような、泣き叫ぶようなその声が、空間の緊張を
一気に引き裂いた。
私はハッと息を飲んだ。
莉愛が囮になったんだ。
私たちを守るために。
でも、このままじゃ――!!
考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。
ロッカーの扉を勢いよく開け、飛び出す。
空気が一気に冷たく感じる。
視界の端で、南くんが追いかけてくるのが見えた。
「莉愛!!!」
叫びながら駆け寄る。
彼女はロッカーの外に立ち尽くし、震える手でモップを握りしめて
いた。
そしてその真正面に――。
ピエロがいた。
白塗りの顔。
異様に大きな赤い鼻。
口角が引き裂かれたように笑っているのに、目だけがまるで死人の
ように濁っている。
その手には、ナタ。
刃にこびりついた黒ずんだ液体が、床にぽたぽたと垂れる。
私と南くんは、反射的に莉愛の前に立った。
体が勝手に動いた。
怖くて、震えて、それでも――動いた。
ピエロはゆっくりと首を傾け、歪んだ笑みを浮かべた。
「ア……ハァ……」
湿った笑い声が、耳の奥にまとわりつく。
そして――。
ナタを大きく振りかぶった。
空気が、裂けた。
私は、息をすることさえ忘れていた。
次の瞬間、視界がぐるりと回った。
「な――っ……!」
何が起こったのか理解するよりも早く、私と莉愛の身体は勢いよく
突き飛ばされ、床を転がった。
肩を強く打ちつけた痛みがじんわりと広がり、息が詰まる。
頭の奥がジンジンと鳴っている。
そのすぐあと――耳を裂くような低いうめき声が響いた。
「……っ、ぐ……ゔぁ゙っ……」
ぞくりと背筋が凍りついた。
その声は、私たちのものじゃない。
顔を上げると、
そこには――ピエロのナタが右肩に深く突き刺さった南くんがいた。
ほんの数秒前まで私たちが立っていた場所に、彼は片膝をつき、
ぼたぼたとおびただしい量の血が滴る右肩を押さえてうずくまる。
呼吸は荒く、肩が上下に震えている。
痛みに耐えているのか、目をカッと見開き、必死に深く深呼吸を
していた。
私は目の魔影の状況を信じられず、息を呑んだ。
「……な、南くん……っ……」
声が震えていた。
言葉が喉の奥で絡まり、次の音が出てこない。
それでも彼は、私の方を見て、かすかに口角を上げた。
痛みで顔が歪んでいるのに、どこか安心したような表情で――。
「はや…く……逃げ…」
その言葉に胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
ピエロは、そんな状況でも狂ったように笑っていた。
白塗りの頬に、真っ赤な口角が引きつるように吊り上がっている。
まるで心底楽しんでいるかのような、ぞっとするほどの笑み。
無機質な仮面のようなその顔が、ゆっくりと南くんを見下ろした。
全身の血が一瞬で冷える。
体が動かない。
喉も固まって声が出ない。
ただ、その冷たい笑みだけが頭の奥に焼き付いて離れなかった。
隣で、莉愛が震えながら小さく
「いや……いやぁ……」と呟いた。
彼女の手が私の袖を掴み、指先まで冷たくなっているのが伝わる。
私も同じだった。
怖くて、動けなかった。
ピエロがゆっくりと腕を持ち上げる。
空気が重くなり、息が吸えなくなる。
教室で笑っていたあの平和な時間が、まるで遠い昔の夢のように
感じられた。
「……やめて……お願い、やめて……!」
私の声が、涙と一緒に零れ落ちた。
でも、その願いは空気に吸い込まれていくだけで、何も届かない。
南くんは倒れ込みながらも、なんとか体を起こそうとしていた。
彼の背中越しに見えるピエロの姿は、ただ静かに彼を見下ろしていた。
息ができない。
喉が勝手にひくついて、苦しい。
頭の奥で何かが警鐘を鳴らしているのに、体が言うことを聞かない。
恐怖で、現実感がどんどん遠ざかっていく。
ピエロが再び腕を上げた。
鈍い光がちらりと揺れ、今度は南くんの頭上に――。
「……やめてぇぇぇっ!!」
私の声が教室に響いた。
そして次の瞬間――頭で考えるよりも先に、体が勝手に動いていた。
「……っ」
気づけば私は南くんの左腕を掴み、その身体を自分の方に
引き寄せていた。
自分の肩に南くんの左腕を回して支えると、信じられないほどの力が
湧いてきた。
それはまるで“火事場の馬鹿力”という言葉の意味を、今になって
理解したような感覚。
恐怖も痛みも、思考すらもすべてが霞んで、ただ「助けなきゃ」という
衝動だけが私を突き動かしていた。
「莉愛!!行くよ!!!」
呆然とその場に立ち尽くしていた莉愛の手を、私は強く掴んだ。
そして、ほとんど引きずるようにして更衣室の外へ走り出した。
更衣室を飛び出してすぐ、私はドアを思い切り閉めた。
「バタンッ!」
という大きな音と同時に、震える手で鍵を回す。
カチリ、と小さな音が鳴った瞬間、ようやく少しだけ息ができた。
「っ……はぁ、はぁ……!」
息が焼けつくように熱い。
肺が悲鳴を上げている。
それでも止まれなかった。
ただ前へ――光の差す廊下の向こうへ――。
「……は、はぁっ……」
だが、まだ終わっていない。
私たちはまだ“見つかる側”のままだ。
そう思うと、足の震えを無理やり押さえ込み、再び走り出した。
エンジンが切れる前に――その一心で、私は全速力で廊下を
駆け抜けた。
南くんの体温が肩越しに伝わってくる。
意識を失い、脱力している身体は重たかった。
けれど、それ以上に「ちゃんと生きている」という感覚が確かで、
絶対に離したくなかった。
足音が響くたび、鼓動が耳の中で爆発するように鳴る。
視界の端が霞み始め、呼吸がどんどん浅くなっていく。
どれだけ走ったのか、時間の感覚がまるでなかった。
けれど、ようやく少し距離を取れたと感じたとき、私は近くのドアノブ
を掴んだ。
そこは使われていない空き教室だった。
勢いのまま中へと飛び込み、すぐさま後ろ手でドアを閉めた。
中は薄暗く、静まり返っている。
窓から差し込む光が床に細長い線を作っていた。
私は南くんを壁にもたれかかるように座らせ、息を切らせながら莉愛の
様子を見た。
「莉、愛……大丈夫……?」
彼女は肩で息をしながら、何度も頷いた。
「……う、うん……美咲こそ……!」
「そっか……よかっ――」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「っ………!」
途端に、体中を襲う重たい疲労感。
頭がふわふわして、足の力が抜けていく。
鼓動の音がどくん、どくんと、耳の奥で異様に大きく鳴り響く。
空気を吸おうとしても、酸素が足りない。
「はぁ……はぁ……」
と必死に呼吸を繰り返すのに、肺が追いつかない。
視界の端が暗くなっていく。
壁に手をついても、力が入らない。
南くんの方に手を伸ばそうとしたけれど、指先がかすかに震えただけで
動かなくなった。
――ああ、私、もうだめかも。
そんな考えが頭をよぎる。
でも、その瞬間に浮かんだのは、南くんと莉愛の顔だった。
ちゃんと助けられた。
ならそれで……いいかな。
その安心が全身を包み込んだ次の瞬間、世界がふっと遠のいた。
音も、光も、すべてが消え、私はその場で静かに意識を手放した。
* * *
ふと目を覚ました美咲は、まばたきを何度も繰り返した。
薄暗い空き教室の中、意識がまだ朦朧としていて、周りの景色が
揺れるように見える。
「……ん?」
そう呟いた瞬間、視界の端に不意に莉愛の顔が飛び込んできた。
美咲は思わずひゃっと声を上げて固まった。
「美咲!!」
莉愛は泣きそうな顔で、手を震わせながら美咲の顔を覗き込む。
「南〜!!起きた!起きたよぉぉぉ!!!」
美咲は横になったまま、ただきょとんとして莉愛を見つめる。
状況がまだ頭に入ってこない。
その瞬間、教室の外からドタドタドタ、と騒がしい足音が近づいてき
た。
「南く――」
言いかけたところで、勢いよく飛び込んできた南くんに、美咲は
そのまま抱きしめられた。
「ちょっ……!?」
思わず目を見開き、身体が固まる。
南くんの温もりと力強さ、そして必死さが直に伝わって、
心臓がぎゅっと締めつけられる。
「良かった……ほんとに良かった……」
南くんは泣きそうな声で何度も繰り返し、美咲を抱きしめたまま
離そうとしない。
横では莉愛が嗚咽をもらしながら、肩を震わせて大号泣していた。
美咲はその光景を目にしても、頭の中は完全に真っ白で、
状況がまったく理解できず、固まったままその場に座り込んでいた。
「ちょ、落ち着いて!」
美咲は必死に南くんを引き剥がした。
しがみついた彼の腕からようやく距離を取り、息を整えながら二人に
向かって叫ぶ。
「何どうしたの? 怖いんだけど……!」
すると二人は、まるで同時に答えたかのように口を揃える。
「ピエロから、俺抱えて逃げてくれたんだろ?
目覚ましたら藤森も倒れてたから肝を冷やした。」
南くんの声は少し震えていたが、どこか安心したような安堵が
混じっている。
「ほんと美咲死んじゃうかと思ったぁぁぁ!」
莉愛は未だに嗚咽をもらしながら、大号泣でその場に立ち尽くしていた。
美咲は二人の言葉を聞き、数秒間ぼんやりと考え込み、
やがて、ゆっくりと頷き、声を漏らした。
「あー……なるほど……」
納得したように目を細める美咲。
だがその数秒後、体が突然反応する。
「ちょ、ちょっと待って! 南くん、肩は!?!?!」
飛び起き、南くんの右肩に視線を集中させる。
ナタが刺さっていたはずの右肩には、簡易的な包帯の代わりなのか
千切られたカーテンが巻かれている。
けれどその下からは、まだ血が滲んでいた。
美咲は真っ青な顔でその光景を見つめる。
鼓動が耳の奥でどくん、と鳴り、手に汗が滲んだ。
しかし、南くんはあっけからんとした笑顔を浮かべ、
落ち着いた声で言った。
「今はもう、ほとんど痛みもないから大丈夫だ。
皆川が手当してくれたから、出血も少なく済んだ。」
その横で莉愛はドヤ顔をして、胸を張るように言った。
「でっしょ〜? なんてったって看護師志望ですから〜!」
美咲はその二人の様子を見て、安堵と恐怖が入り混じった複雑な表情で
息を吐いた。
へなへなと座り込んだ美咲は、今度は自分から南くんの傷に
触れないように注意しながら、慎重に彼を抱きしめた。
まるで割れ物を扱うかのように、優しい手つきで。
「……良かったぁ……」
美咲はその声を、今にも泣き出してしまいそうなかすれた声で漏らした。
息が少しずつ胸に戻っていく。
右腕をそっと伸ばして莉愛も引き寄せ、南と莉愛、二人を同時に
抱きしめる美咲。
一瞬、二人はキョトンとした表情を浮かべたが、すぐにお互いの目を
見合わせ、柔らかく微笑む。
そして、そっと美咲の頭を撫でた。
その温もりに、美咲の胸の奥で張り詰めていた緊張が、ゆっくりと
溶けていく。
三人だけの静かな時間が、ようやく訪れた瞬間だった。
けれど、その直後だった。
「……美咲」
いつもより少しだけ低い、真面目な声。
莉愛の表情がきゅっと引き締まる。
いやな予感がして、胸の奥がざわ、と揺れた。
「二回目のゲーム……美羽と宮野くん、それと……地雨さんが
死んだ。」
一瞬、時が止まった。
「放送で言ってた通り、三人死んだから……それで二回目のゲームは
終わった、って。」
莉愛は淡々と伝えようとしているのに、声が震えていた。
それが逆に、現実の重さを突きつけてくる。
理解が追いつかない。
脳の中で言葉が音を立てて崩れていく。
「……え……?」
愕然、という言葉では足りないと思った。
頭が真っ白になるって、こういう感覚なんだろうか。
美羽は、グループこそ違ったが、
「美咲はほんと髪の毛綺麗だよねぇ〜!私は癖っ毛だから羨ましい!」
なんて言いながら、よく笑って話しかけてくれた。
誰にでも分け隔てなく優しくておしゃれな美羽は、私の憧れでも
あった。
宮野くんは、誰にでも冗談を言って、クラスをふわっと明るく
してくれる、A組のムードメーカーだった。
地雨さんは――小泉さんが...大親友が死んで、涙を流していた。
みんな、つい数時間前まで教室にいた。
当たり前みたいに、同じ空気吸って、笑ってた。
それが、もう。
「……うそ、でしょ……」
自分の声がかすれて聞こえた。
涙は不思議と出なかった。
ショックが大きすぎると、涙よりも先に頭が真っ白になるんだという
ことを、美咲は初めて知った。
隣で南くんが、静かに言った。
「……俺と皆川は、ゲーム終了の放送を聞いただけだ。」
いつもの落ち着いた声なのに、少しだけ沈んでいるように感じた。
「でも……さっき会った星宮が言ってた。だから……多分、事実だ。」
南くんの拳がぎゅっと握られる。
膝の上で白くなるほど、強く。
その姿が胸に刺さった。
三人も、死んだ。
この学校で。
同じクラスで。
同じ時間を過ごしていた仲間が。
「……そんなの、ありえないよ……」
声に出した瞬間、現実が形を持って迫ってきて、呼吸が乱れた。
莉愛がそっと背中に触れてくれる。
その温かさで、ようやく自分が震えていることに気づいた。
嗚咽が、堰を切ったみたいにこぼれ落ちた。
膝が勝手に折れて、その場にうずくまる。
胸の奥がぎゅっと潰されたみたいに痛くて、息を吸おうとしても空気が
喉に入らない。
「っ……ひ……っ、ぁ……っ……!」
ようやく溢れ出した涙が、次から次へと頬を伝って落ちていく。
喉が何度もひくついて、それでも涙は止まってくれなかった。
――どうして?
どうして私たちがこんな目に遭わなきゃいけないの?
あのピエロは何なの?
あの放送は誰がやってるの?
誰が何のためにこんな残酷なことをしてるの?
頭の中が「?」で埋め尽くされて、そのどれもが答えを持たないまま
消えていく。
考えたくても、もう何も追いつかない。
限界だった。
こんなの全部夢だって――
そう言い聞かせたかった。
必死に、必死に夢にすがりつきたかった。
でも……目の前に突きつけられる“死”が、残酷に現実を形作っていく。
小泉さん。美羽。宮野くん。地雨さん。
名前を思い出すたび、胸の奥が引きちぎられそうだった。
――これで、3−Aは23人。
数字だけが冷たく頭に浮かんで、突き刺さる。
そのたびに涙が込み上げて、呼吸が荒くなる。
もう嫌だ。
全部投げ出したい。
死にたい……。
心はそう叫んでいるのに、身体は違った。
生きようとしていた。
しがみつくみたいに空気を吸おうとして、苦しくても何度も呼吸を
していた。
「美咲……美咲、大丈夫、だから……っ」
隣から聞こえる莉愛の声は、震えていた。
涙をこらえているのがわかる。
私を抱き寄せる手が小刻みに揺れていて、必死に落ち着かせようと
してくれていた。
そして、反対側から――
「……大丈夫だ。」
南くんが、そっと背中を擦ってくれる。
その仕草は驚くほど丁寧で、ゆっくり、ゆっくり呼吸を合わせるみたい
に一定だった。
肩に巻かれた布は、まだところどころ赤く染まっている。
傷口が完全に閉じていないのが一目で分かった。
それなのに、痛みをこらえてまで優しく手を伸ばしてくれている。
「ごめんね」と言おうとしたけれど、声にならなかった。
また喉がつまって、嗚咽だけが漏れる。
世界がぐらぐら揺れて見える。
涙で滲んで、教室の色が全部混ざっていく。
でも――両側から支えてくれる温もりだけは、はっきり感じていた。
壊れそうになっている私を必死に引き戻そうとしてくれる温かい手が、
確かにそこにあった。
涙と嗚咽でぐしゃぐしゃになった声が、勝手に漏れた。
「……っ、2人は……死なないよね……?
いっしょに……生きてくれるよね……?」
言った瞬間、自分でも驚くほど弱々しい声で、子供みたいに
縋っているのが分かった。
南くんがぴたりと動きを止める。
その横顔が一瞬ぐっと強張って、苦しげに眉が寄った。
喉がひく、と震えたのが分かるほど静かだった。
俯いて、唇を噛み締めて――
そして、絞り出すように言った。
「……ああ。生きて出よう、必ず。」
それは強がりでも、慰めでもなく、今の南くんが言える、
限界ぎりぎりの“約束”みたいだった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
続いて、莉愛が勢いよく顔を上げた。
「あったり前でしょ〜!! 絶対生きてやるもん!
もちろん、2人と一緒にね!」
そう言って涙で潤んだ目のまま、無理矢理明るい笑顔を作ってみせる。
その笑顔がちょっと歪んでいるのが余計に愛しくて、痛くて。
その瞬間、ふっと体から力が抜けた。
息がふらついて、咳き込むみたいに肩が揺れる。
それでも私は何度も、何度も頷いた。
「……ごめん……ごめんね……
2人だって不安なはずなのに……ごめん……」
そう言った途端、南くんと莉愛が同時に目を見開いた。
そして――泣き笑いみたいに、ぐしゃっと顔を崩した。
「やっといつもの美咲が帰ってきたぁー!!」
莉愛が勢いよく抱きついてくる。
腕の中があたたかくて、涙がまた溢れそうになった。
南くんも、かすかに震える声で笑う。
「藤森、……おかえり。」
目尻に涙を浮かべながら、それでも優しく笑ってくれた。
その笑顔を見て、胸の奥に溜まっていた何かが、やっとほどけていく。
二人の声に包まれながら、私はようやく――生きたいと思った。
そうしてやっと落ち着き、平常心を取り戻した三人は、
これからのことを話し始めた。
「今までも星宮以外誰も来なかったし、拠点はここにしねぇか」
そう尋ねた南くんに、美咲と莉愛は笑って、
「そうしよそうしよ!」
「ちょうどいい広さだしね」と答えた。
二人の言葉に軽く頷いた南くんは、私がまだ眠っている間にこの教室を
莉愛に任せて学校のあちこちを探索していたらしく、クラスメイト
それぞれの拠点も把握しているようだった。
「みんなはどこらへんに隠れてるの?」
そう私が尋ねると、南くんはゆっくりと肩を庇いながら立ち上がり、
白いチョークで黒板に校内図を書き始めた。
カッ、カッという懐かしい音が響き、黒板にきれいな線と文字が
書き加えられていく。
そうしてそれをながめていること数分。
校内図を書き終えた南くんは、ふーっと息をつき、最後にF1からF4の
文字をそれぞれの頭に振っていき、それが終わると、それぞれの階の
教室に赤いチョークでいくつか印をつけていった。
「一番上の図にある赤丸。これが今俺達がいるこの教室だ。」
印をつけ終わった南くんは、そう言うとチョークで赤丸を叩いて
強調した。
「F4……ああ、4階って意味か。」
と隣で莉愛が呟いた。
どうやら南くんの図によると、この階には私たち以外誰も隠れていない
らしかった。
だが反対に、F3と書かれた、美咲たちのいる4階より一つ下の――
3−Aの教室がある三階は人が密集していて、同じ階に三つの赤丸が
存在していた。
一つは3−Aの教室で、その赤丸の上には、『笹岡琴音、沢城美由紀、
大蔵綾音、我狼大我、石川湊』という五名の名前が書かれていた。
その五人は普段の学校生活でも仲が良く、行動を共にしていたため、
納得のいくメンバーだった。
「ここは多分、校内にいるグループの中で一番人数が多い。
俺が見に行ったときは、なんとか気力を保ってたが....。」
そこまで言って、南くんは言葉を切った。
そして、3−Aの教室から少し離れた場所にある用具室に書かれた
赤丸の上には、『真野彩海・萩原凛音』と書かれていた。
二人はピエロに殺されてしまった地雨さんと羽菜さんと特に
仲が良かった。
きっと私以上にショックを受けているだろう。
大丈夫だろうかと心配がよぎった。
だが、そんな美咲の心の内を呼んだかのように、南は力なく笑みを
浮かべると、
「この二人は大丈夫だ。地雨と小泉の分まで生きると豪語してた。」
と言った。
三階の最後の赤丸は一番端の教室に書かれており、そこには
佐川恋雪と佐倉望の名前が並んでいた。
「ここには佐倉と佐川がいた。随分余裕そうな表情だったから、
もしかしたらなにか策があるのかもしれない。」
怖がりで二回目のゲームが始まる前も悲鳴を上げていた恋雪ちゃんと、
南くんを疑って一方的に殴ってきた短気な望くん。
そんな二人が行動を共にしていることに、美咲はどこか違和感を
覚えた。
南くんは黒板の下へ視線を移し、次に描かれた2階の欄へとチョークを
滑らせた。
F2と記された図にも、赤丸が二つ。
しかし、その赤丸の上にはまだ名前が書かれていなかった。
「ここは……誰がいたの?」
私がそう尋ねると、南くんは二つのうち、一番端に描かれた赤丸を
指さした。
「こっちは星宮と成瀬、それと奈良岡と水野の女子グループがいた。」
そう言いながら、彼はその赤丸の上にまず「星宮天音」と書き込む。
そして次の名前を書こうとしたところで、眉をひそめ、首をかしげた。
「どしたの?」
莉愛が首を傾げながら問いかける。
南くんは、気まずそうに目をそらし、チョークを持った左手で
頬を掻きながら、ぼそりと呟いた。
「……悪りぃ。女子の下の名前、漢字分かんねぇ。」
その瞬間、莉愛はぽかんとした顔になり──すぐに吹き出した。
「別に平仮名でも良いのに……!」
ケラケラと笑いながら、南くんからチョークをひょいと奪い取る。
「じゃあ、私が書きまーす」
そう言って黒板に向き直ると、彼女は軽快に手を動かした。
南くんの流れるようで癖のない、美しい細字とは対照的に、莉愛の字は
丸っこくて少し跳ねた可愛い丸文字だ。
黒板には、
『星宮天音・成瀬柚希・奈良岡美桜・水野雅美』
と、まるで手帳に書くような柔らかさで名前が並んでいく。
書き終えたのを見て、南くんは素直に感心したように息をもらした。
「……記憶力良いんだな。」
そう感心したように呟く南くん。
それを聞いた私は思わず笑みが漏れた。
莉愛は、こういう時でも決して暗くならない。
きっと空元気でもあるのだろうけれど──その底抜けの明るさと、
南くんの少しズレた天然ぶりに、私は確かに救われていた。
全員の名前を書き終えた莉愛は、チョークを黒板の端に置きながら、
ふっと肩の力を抜くように振り返った。
その視線が、F2の図に描かれたもう一つの赤丸に向かい、指先で
ちょん、と示す。
「で、ここはー?」
柔らかな声で問いかけると、南くんはその瞬間、ぱっと顔を明るくした。
ついさっきまでの真剣な表情とは打って変わり、少年のように素直な
笑みだ。
「ここは全員男子だったから任せろ。」
胸を張るようにそう言って、莉愛の手からチョークを受け取る。
あまりにも嬉しそうだったため、莉愛は目を瞬かせ──次の瞬間、
吹き出した。
「どんだけ書きたいの……!」
爆笑しながら身を折る莉愛。
その勢いにつられるように、私も思わずクスクスと笑ってしまった。
怖さや不安で固まっていた胸の奥が、少しだけあたたかくほぐれていく
のを感じる。
そんな私と莉愛を見て、南くんはキョトンと首を傾げた。
自分が笑われている理由が本気でわからないらしい。
しかし、彼は気にした様子もなく、黒板へ向き直ると、少し誇らしげに
説明を始めた。
「ここは井口と神宮寺、水瀬と西川がいた。
……“何かあったら頼れよ”って言ってくれてさ。嬉しかった。」
その時のことを思い出したのか、心の底からじんわりと嬉しさが
広がるような笑顔が浮かんでいた。
普段あまり感情を出さない南くんが、こんなふうに表情を崩すのは
珍しく、そのギャップに胸がじんわりする。
彼は、黒板に迷いなく名前を書き始めた。
『井口 周平・神宮寺 伊織・水瀬 透・西川 翔真』
筆圧の強い、真面目で整った字が並ぶ。
書き終えると、南くんはチョークを置き、「どうだ」とでも
言いたげな、ほんの少しドヤッとした顔で振り返った。
本人はまったくの無自覚なのだろう。
しかし、普段クールで冷静な彼が、ちょっとしたことで得意げになって
いるのがやけに可愛い。
そのギャップが面白くて仕方がなく、私と莉愛は思わず顔を見合わせ、
また小さく笑い合った。
南くんの天然ぶりに、重かった空気がふっと軽くなる。
ほんのわずかなひとときだが、確かにここには笑顔があった。
南くんは黒板いっぱいに書き上げた校内図をじっと見つめたあと、
スマホを取り出し、何の迷いもなくシャッターを切った。
軽い電子音が教室に響く。
カシャッ。
その音を聞いた瞬間、私と莉愛は同時に「えっ!?」と驚いた声を
上げた。
あまりにも自然に撮影したため、最初は何が起きたのか
理解できなかった。
「いやいやいやいや、えぇ!? スマホ動くの!?!?」
一回目のゲームが終わった直後。
私たちは外部へ助けを求めようとして、何度もスマホを操作した。
しかし、圏外どころか、画面そのものが反応しなくなり、
完全にフリーズしてしまっていた。
まるで、外の世界と引き離されるように。
だからこそ、南くんが当たり前のようにカメラを使っている光景は、
あまりにも衝撃的だった。
「えぇぇ、カメラ使えるの!?これ……いやそんな普通に!?」
莉愛が目を丸くしながら言う。
私は慌ててポケットからスマホを取り出し、電源ボタンを何度か押す。
フリーズしたまま真っ黒だった画面が──ふっと明るくなり、
何事もなかったかのようにスムーズに起動した。
「……ほんとだ……ちゃんと動く……」
半信半疑でカメラのアイコンをタップすると、画面は遅延もなく鮮明に
切り替わった。
カメラが正常に動くという当たり前のことが、今は奇跡のように思える。



