シンデレラ・ララバイ

 
 
 
「徹さん…さっき廊下に貴賓室って書いてあったんですが」
「あっそうです、急だったので空いてなくて」

目の前に広がる部屋は広く、わーいと部屋を無邪気に走り回る心の奥には、露天風呂も見える。
足音がやけに柔らかくて、床が音を吸い込んでいるのが分かった。
一花はひきつった口元をそのままに、徹を横目で見上げた。

「富裕層って怖い…」
「お部屋一つにはなっちゃうんですが、ちゃんとベッドルーム二つあるので安心してください!一花さんが露天風呂に入る時は、僕ロビーとかにいますからね」
「そういうことでは…」

天井が高すぎて、一花は声を出す前に一度息を吸い直した。
先日、昼間ダラダラしている時にちょうどテレビで特集されていた場所だ。

この旅館、そもそもがすっごい高級なんじゃなかったか?
五つ星ホテルって紹介されていた気がするんですけど…?

考えたらいくらでも疑問は出てくるが、きっとそれを徹にぶつけたところで価値観の差と強引さで押し切られるだけなので、こういう時は何も考えないに限る。
ケーキの時のように、無心でいるのみだ。一花は喉まで出かかった言葉たちを飲み込んだ。


露天風呂の湯面が、窓越しにゆっくり揺れているのが見えた。

「ボディとフェイシャルのエステも取ってあるので、十六時から行ってきてくださいね」
「はっ!?」
「もう支払い済みですから」
「タチが悪い…」
「あっ、一花さん引いてますね?僕分かるようになったんですからね」

無心でいると決めた次の瞬間から二の矢が放たれ、その決意は無駄に終わる。

口角を上げながらニヤニヤと笑う徹をじとりと横目で見つめ、一花は、はしゃぐ心の元へと駆け寄ったのだった。






心が、風呂は部屋の露天より大浴場がいいと希望した。
今夜の風呂は一花と大浴場に入り、部屋の露天は朝ということになった。
こんな豪華な部屋なんだから入らないともったいないと思ってしまうのは、貧乏根性だからだろうか。

ベッドルームは二つあったが、心が一花と徹と一緒に寝たいとグズったので、心を挟んで川の字で寝かしつけることになった。
旅行は久しぶりと聞いているので、興奮して楽しい気持ちに水を刺したくないと、小さい心の身体の奥側で横たわる徹は極力意識しないようにして、一花は寝かしつけだけに気持ちを集中させた。

心が寝て、部屋をそっと出たあと徹は言った。


「一花さん、よかったら、テラスでお酒でも飲みませんか」
「はい…」

地酒と地ビールがあったので買ってきたんですと、備え付けの冷蔵庫からビニール袋を取り出す徹を見て、一花は頷いた。
畳を擦る自分の足音が、やけに大きく聞こえる。

畳を抜けて外に出ると、夜風が思ったよりも湿っていて、頬にぺたりと張り付いた。

「浴衣、似合ってますね」
「えっ」
「可愛い」

テラスの椅子に座るなり、そう声をかけてきた徹に思わず顔を向けると、少し暗がりのテラスの明かりに照らされた徹が、にこりと微笑みかけてきた。
返事を探している間に、徹の後ろで灯りが一段落ちた。

「ありがとうございます…」

その一言が落ちた瞬間だけ、二人の間の空気が薄くなった気がして、一花は一歩も動いていないのに、距離を測り直す。
旅館の簡素な浴衣で、お風呂も済ませてすっぴんで、髪も適当にまとめただけの私に、可愛いとか言うのか。

徹は何事もなかったかのような顔で、ビニール袋から缶ビールや瓶のお酒をサイドテーブルに取り出している。
その髪の毛がふわりと風で揺れて、後ろに靡いていく。

そんなこと言ったら、徹の方こそ整っているくせに。
一花はそう心の中で思っても、口には出さない。

日常的に優しげに細められる、垂れ目気味の目元。
笑うと目尻に細かなシワが寄る。
鼻筋は真っ直ぐに高く通り、口角が自然と上がっている。

少し長めの、無造作に整えられたダークブラウンの髪がふわりと揺れる姿を見つめた。
これでモテてきていない、と言われたら誰だって嘘だと思うだろう。

「今日、心が喜んでいるのを見て、本当に良かったって思いました」
「はしゃいでましたもんね」
「急でしたが、一緒に来てくれて嬉しかったです」
「…こちらこそ、こんな素敵なところに泊まらせてもらえて…」

部屋を締め出されるように行かされたエステも気持ちが良く、肌も明らかにモチモチとしていて触った感触に違いが出ていた。

「心と一花さんが喜んでくれることが、僕は一番嬉しいです」
「ふふっ」


この人は、手段こそ強引で、乱雑に見えるけれど、根本の気持ちはまっすぐ心に向いていて、そこに純粋な愛情を感じて、そういうところが憎めなくて、可愛いところだなと思う。

人間的にどこか歪んでいるなと思うのに、にこやかに終わりよければ良し、という顔で笑っている徹が何だか面白くて、一花は思わず笑みがこぼれた。


「…心だけじゃなくて、僕にも笑いかけて欲しいなって、思ってましたけど」
「え?」
「実際にそうしてもらうと、たまらないですね」
「何を…」


徹は目元に柔らかくかかっていた前髪を、ゆっくりとかきあげた。


テラスに穏やかに差し込んでくる月の青っぽい光と、床に置かれたライトのオレンジ色が混ざって、夜風に晒された頬が光った。

まとめた髪の毛の下を通るように、首筋に抜けた少し冷えた風が、何事もなかったかのようにあたりを通り過ぎていった。

触れたのは風だけなのに、なぜか肩に力が入った。