金曜に自宅に逃げ帰ってから二日が経った、日曜の夜。
何の連絡もない土日休みを過ごしたのは久しぶりだった。
ここ最近はずっと、徹の家で土日を過ごしていたので、たった二日会わないだけで、何をしていたんだろうと考えてしまったり、随分会っていないような気持ちになったりした。
他のことをしようと思っても、どうしてもあの時のことを考えてしまい、何も手がつかないまま、時間だけが過ぎていった。金曜日に脱ぎ捨てた上着も、そのまま椅子にかけられている。
ベッドの上で寝転んでいた一花は、白い壁にかけられた時計を見つめる。
短針が十を指しているのを見て、ため息をつきながら身体を起こした。
心はもう寝ている。
明日の朝に出勤しても、何も問題はないが、徹は家にいるだろう。
心に気まずい姿を見せないためにも、今日のうちに徹に会いに行こう、そう思って、椅子にかけた上着を、一瞬躊躇した後、手に取った。
「あ…」
「一花さん」
静かにリビングへ入ると、徹がダイニングテーブルでパソコンを開いて仕事をしているようだった。リビングのドアを開けたところで、音に気づいて顔を上げた徹と目が合う。
「先日は、電車で帰ったんですか?」
「はい…」
「遅い時間に、大丈夫でしたか?」
「…はい……」
失礼なことを言って、いきなり帰ったにもかかわらず、私の心配から入るのか。
どんな顔をしていいのか分からず、一花は視線を落とす。
自宅とは違う、タイルの床と上質なスリッパが目に入る。
「お話、してもいいですか?」
「はい…」
一花は先日と同じように、徹の前に座った。
徹に視線を向けると、パソコンを閉じていた。いつも笑みを絶やさない顔は、少しだけ強ばっているように見えて、無意識に一花は拳を握る。
「一花さんの言うとおりでした」
徹はまっすぐ一花を見て、話し出した。
「心はしっかりしてるって思い込んでいて、できるだけ自分の力でと思う割には上手く回せていなかった。僕の怠慢です。もっと早く調整していれば、あの日心に寂しい思いをさせることも、一花さんに迷惑をかけることもなかった」
一花の家のエアコンと違って、徹の家の空調は静かだ。天井に埋め込まれた空調からは、静かに風が吹き出して温度を調整している。
「なんで、それをもっと早くしなかったのかなって、自分でも考えたんですが、今は、一花さんがいるから、いざとなったら頼れるという考えで」
「え、」
「だから、育児に向き合うことができていた。結局は、一人でこなす自信がなかったから逃げていただけです」
一花は何と返していいか分からず、徹を見つめる。
いつものスーツ姿ではなく、黒のTシャツで、髪もラフにふわりとかきあげられている。柔らかい雰囲気はそのままなのに、いつもより固い空気を纏っている。
「でも僕はたった一人の心の親だから、向き合う義務がある」
「…徹さん」
「心にも一花さんにも甘えていて、すみませんでした」
徹は頭を下げた。謝られるとは思っていなかった一花は、思わず椅子を引き、それを止める。
「いっ、いえ、私こそ、何も知らないのに偉そうなこと言ってしまって、……すみませんでした」
徹は下げていた頭を上げて、ちらりと一花を見上げた。
下から見上げる徹の視線に、少しだけ戸惑う。
「一花さん」
「は、はい」
徹の口から発せられた自分の名前は、いつもと違って固い。
思わず一花は身構え、返事を返した。
テーブルの上に吊るされた、ダイニングを照らすライトが、徹の閉じたパソコンを照らしている。
「仲直りしましょう。握手」
「え?」
予想もしていなかった言葉に、一花の声も裏返る。
目の前に座る徹は、一花に手を差し出した。どうやら聞き間違いじゃなさそうだと思い、一花も手を差し出す。
徹の手はかさりと乾燥していた。
緊張していた一花の手は、それとは対照的に汗をかいていて、それがなんだか恥ずかしかった。
「正直に、思ったことをもう一つ言ってもいいですか」
「え?はい」
テーブルの上で、大の大人が握手している。しかも徹は社長だ。
そんなおかしな空間なのに、どこか気まずくて恥ずかしいような、ピリリとした緊張感が漂っている。すぐに離れると思った手はそのまま離れずにいて、一花は腕に力を入れたままだ。
「一花さんがいない生活、もう想像できなくて」
「え?」
徹は、今まで真っ直ぐ一花を見つめていた視線を外した。
ふわりとかきあげていた髪の毛がその動作で降り、目元を隠す。
握られていた手の感覚が、急に遠くなったような気がした。
「この土日、すごく寂しくて、明日から来てくれなかったらどうしようって、不安になりました」
「え、…え?」
握られたままの手に、力が込められる。
手のひらの中が、じとりと先ほどよりも湿度が高まった気がするのは、どうしてだろうか。
「…すみません、だからなんだって話ですよね、ごめんなさい言うべきじゃなかった忘れてください」
「え…は、…はい…」
「ごめんなさい一花さん忘れてください」
そうして急に手が離れた。
いきなり空気に触れた自分の右手が、何だか一気に冷たく感じる。
一花は徹から視線を動かせない。
「ごめんなさい忘れてください」
徹は先ほどまで握手していた手で自分の顔を覆い、閉じたままだったパソコンを持って立ち上がった。椅子と床が擦れた音がして、目の前の徹の顔の位置が急に高くなる。
「おやすみなさいっ」
徹はそう言って、リビングから早足で出ていった。
一花はその場から動けない。
先ほどまで徹の顔があったところは、なんてことないキッチンの影となっている。それでもそこを見つめたまま、離された手は膝の上で、今度はデニムに湿り気を移していた。
「え…?」
言われた言葉よりも、徹の顔が頭に残って離れない。
いつも低姿勢のくせに強引で、ニコニコ笑みを絶やさない徹の、初めて見た、少し赤くなった顔が忘れられなくて、一花はしばらくその場から動けなかった。

