「一花さん、行ってきます」
心がリビングにいることと、テレビの音が聞こえるのを確認して、徹が玄関で一花に唇を寄せる。一花はヒヤヒヤしながらもそれを必死に受け止めて、行ってらっしゃいと返す。
「今日は髪の毛プリンセスみたいにして欲しい!」
「いいよ〜、どのプリンセスにする?」
心の髪の毛を結って、制服を整えたら家を出る。
マンションの玄関に常駐しているコンシェルジュにも、とっくに顔を覚えられ、にこやかに挨拶をされる。それに同じように返すのにも、いつの間にか慣れた。
「行ってらっしゃいー!」
「うん、行ってきますー!」
心を保育園に送った後、そのまま家に戻り、徹から渡された資料を読んだり、経営の本、保育の本を読んだりする。学年主任までは経験があるが、園全体をまとめるとなると、その方向の勉強もしなければいけない。
自由に入っていいと言われている徹の書斎には色々な本があって、勉強になる。
【今日の夜はオムライスがいいです】
一息つくと、徹からメッセージが入っていた。
心も好きなメニューだが、子どもみたいなリクエストに思わず口角が上がる。
そういえば先日、徹がスープメーカーを買ってきたから、それで手作りのコーンポタージュを一緒に作ってもいいかもしれない。
ソースは、心の好きな鮭を入れて、ほうれん草と一緒にクリームソースでも作ろうか。そんなことを思いながら自分の昼食を簡単にとり、掃除と買い物を済ませる。
家政婦さんはもうお断りすることになったので、今では一花が家の中の掃除も行っている。徹は渋っていたが、これくらいはやらせて欲しいと一花が頼み込んで、渋々許可がおりた。
「一花せんせー、ただいまー!」
「おかえり心ちゃん、今日も暑かったねー!」
いつの間にか反対の季節になっている。
初めてこのマンションに足を踏み入れた時は二月で、心も一花もダウンを着ていたのに。二人で一本の日傘に入って、じりじりと照らしてくる太陽を避けながら、家に帰る。
「保育園のプール楽しいから、一花先生とパパとも一緒にしたいなー」
「今度大きいプール連れてってーって、パパに頼んでみる?」
「うん!一花先生も一緒に行こうね」
「いいの?」
心の背は、どんどん伸びて、担任をしていた時よりも言葉も大人びている。
いろんなことの理解も早くなっていて、女の子は精神発達が早いと言われるけれど、その通りだなと実感する。
「うん!一花先生、心のおうちにずっと一緒にいてね」
「ありがとう、嬉しいよー!」
「一花先生だいすき!」
「私も大好きだよー!」
心が、おやつの蒸しパンを食べながら、嬉しそうに笑う。
その目尻には徹と同じような皺が刻まれていて、遺伝子の繋がりを感じる。
「あ、おかえりなさいー」
「パパ!」
最近は、徹も仕事を頑張って調整しているらしく、早く帰ってくる日が増えたように思う。今日はちょうどお風呂の時間に間に合った。洗面所で服を脱いでいる途中の心に、徹はニコニコしながら抱きついている。
「パパ帰ってきたし、パパとお風呂入る?」
「いや!一花先生と入る!」
「えっ」
最近はこんな調子なことも増えて、これも一種の成長段階ですよ、と徹を後から慰めなくてはいけないことも増えた。心に脱衣所から締め出された徹を横目に、一花は化粧を落とす。今日もまた、このパターンになりそうだ。
そのあとは、パパと一花先生と一緒に寝る、と心が言って、徹はだいぶダメージが回復したらしい。相変わらず少し伸びた部屋着のまま心を抱っこする姿に、一花は誕生日にはいい部屋着をあげようかな、などと思いながら心を挟んでベッドに寝転がった。
「今日は早く終わったんですか?」
「いつまでも会社で仕事してるより、一旦家に帰って心と一花さんの顔を見てから仕事を終わらせる方が燃えるって気づいて」
「は、はあ」
心が寝た後、リビングで一花は徹にコーヒーを淹れながら言った。
徹は食器をきちんと洗って元の場所に戻してくれていて、キッチンは片付いていた。
「だから、僕の部屋で寝ててもいいんですよ」
「え?」
「そしたら早く寝室に行きたくて、頑張れます」
「え?はい」
「待っててくださいね」
あとは自分でやりますよ、とコーヒーメーカーの前で言われ、コーヒーを片手に徹はリビングから書斎に消えていった。
なんだかいつの間にか一緒に寝る流れになったな?また私、流されたな?
もしかして習慣化する感じか?これ。などと思いながら、一花は眉を顰めながらその背中を見送る。
待っていようと思うも、触り心地の良い布団と整った空調で、段々それに抗えなくなっていく。眠りに落ちそうなところで唇に何かが触れ、一花は薄目を開けた。
目の前には徹がいて、キスされたのだと分かる。
「あ、起こしちゃいましたか」
「寝ちゃってました…」
「いいですよ、寝ても」
「…寝てもって、なんですかこの手は?」
温かい布団の中で、少しだけひんやりとした手が、一花のTシャツを捲り、素肌をなぞっている。
シャツの生地が滑り、肌に残る冷たさが、ふっと背筋を走っていく。
思わず吸い込んだ息が、布団の匂いと混ざる。
「だから、寝ててもいいですよ?」
「ね、寝れるわけないじゃないですかっ、ひゃっ」
「なんですか今の可愛い声?」
そう言いながら徹が、もぞもぞと布団に潜り込んでいく様子を、一花は諦めたように見つめた。布団の上で重なる影がじわりと広がり、その中で自分の目が追う先がぼんやりと揺れる。耳の奥で、自分の鼓動が低く響いているのがわかる。
「ちょ、徹さん」
「んーなんですか?」
またこうやって、流されていくんだな…この優しいくせに強引で、しつこい社長に。
「寝ないんで、すかっ、」
「仕事頑張ったので、ご褒美頂いてから寝ます」
きっと翌朝も、また心に見えないようにキスされて、見つからないかヒヤヒヤしながら私だけ慌てることになるのだろう。
「なっ、あ、ちょっと」
「可愛い、一花さん。早く僕のものにしたい」
チラリと視界に入った窓から差し込む夜の淡い光が、布団の縁に細い線を描いていた。それに徹の線が重なる。一花はそれを見て、幸せだなと、笑みをこぼした。
《完結》
ありがとうございました!
続きは番外編で、ちょこちょこ更新していきます^^
徹目線のお話!ちょっと踏み込んだ表現もありです〜
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