シンデレラ・ララバイ

  
 
帰りの電車の中で、一花はスマホの連絡先に追加された「西折徹」という名前をぼんやり眺めていた。
保護者と連絡先を交換するなんて、今までで一度もなかった。

決まりで保護者の方とは交換できません、と一花は伝えたが、理事長に話を通しておくので大丈夫ですとにこやかに言われた。
組織の上を出されてしまっては一花も断ることが出来ず、世の中の不条理を実感しながらスマホを取り出すことになった。

徹は穏やかな顔と口ぶりで、丁寧に話すくせに、なかなか強引で欲求を通す力が強い。
これもなかなか厄介なタイプだな、と思いながら、一花は最寄り駅への帰路についた。
 
 


そして月曜日、休憩中に園長に呼ばれ、園長室に入った一花は、先日の金曜日の悪夢を再び思い出すことになる。

「一花先生、今日も心ちゃんをお家まで送っていってあげて欲しいの」
「…え?…あの、私今日、遅番じゃないんですが」
「それは知ってるけど、私もさっき本部の方から連絡があって、何が何だか」

「本部」との言葉に、一花は思わず心の中で、あいつ、と呟き、あの時の顔が浮かぶ。

「…理事長先生からでしょうか」
「本部だからそうかも。そういえば金曜日、ありがとうね。大丈夫だった?」
「……えっと、実は…」

主任にはすでに話をしていたが、園長は朝不在だったので、まだ報告できていなかった金曜日の話を簡単にすると、主任保育士と同じようなリアクションをされる。

「まぁ!いいじゃない!条件もいいし!」
「…そういうことなんでしょうか…」
「先生が抜けるとなると正直痛手だけど、…いつでも戻ってきていいからね!」
「いえまだお返事していなく…」
「でも出来れば、今のクラスは最後まで見て欲しいわ」
「それは、そのつもりです…」

今は二月。
四月からは学年も上がり、心も年長、つまり五歳児クラスへと進級する。
年度が変われば担任なども再編成されるので辞めることも可能ではあるが、とりあえず今のクラスの子ども達を最後まで見ることは譲れない、と一花も考えていた。

ウキウキした様子の園長に適当に対応し、その日は指示通り、自分の勤務終了のタイミングで他の子どもに見つからないように、こっそり心と一緒に園を出て、三日前に来たばかりの心の家に向かった。

なんで私が、こんなにコソコソと、あの人の要求の通りに動かなきゃいけないんだ?
一花はそう思いながら、また同じコンシェルジュにお辞儀をした。昨日より少しだけ、ぎこちなさが減った気がして、それもなんとなく悔しかった。




「一花先生、これから毎日心のお迎えしてくれるの?」
「んー、どうかなぁ」
「保育園の後も先生と遊べるの、うれしい!」
「先生も嬉しいよー!心ちゃん可愛いねえ!」
「えへへ」

心は一花をいつも慕ってくれていて、欲求も素直に言葉に出してくるタイプで、可愛らしい。
父親の話もよく会話の中で出てくることが多く、いいパパなんだろうな、という印象は元々持っていた。

先日と同じように、夕食と風呂を済ませ、心の寝かしつけまで終わらせた。
人の家ということでまだ戸惑いはあるものの、やることとしてはそこまで難しくもない。
前回も行ったので、配置なども覚えていた分、スムーズに出来た。


「一花先生!」

先日よりは、徹の帰宅は早かった。
寝かしつけが終わり、二十一時過ぎにリビングに戻ると、徹がちょうど帰宅したところだったらしい。
コートを脱ぎかけた徹が、一花を見て嬉しそうな声を上げた。

「こんばんは、お疲れ様でした」
「一花先生こそ、お疲れ様でした!」

徹はコートをダイニングテーブルの椅子にかけて、スーツのままキッチンで何かを温め始めた。
一花は疲れたな、と息を吐いて、その後ろ姿を見つめた。

身長は百八十センチを超えているだろう。ネイビーのスーツは体にフィットしていて、きっとオーダーメイドだ。
今日、心の書類で確認した年齢は三十五歳。一花の五つ上になる。

このルックスで社長で、シングルファーザー。彼女が数人いてもおかしくなさそうなのに、そういうのはいいのだろうか。


「一花先生、今日はお弁当を買ってきてみたんですよ。銀座の美味しいやつです」
「え?」
「一緒にまた食べようかなと思って」

熱いのでお気をつけください、と渡されたそれを思わず受け取ってしまう。
湯気が出ているその弁当は、確かに美味しそうだ。

「いいんですか?」
「もちろんです!あとこれも一緒に」

ついでみたいで申し訳ありません、と渡された茶封筒の中には現金が入っていた。

「なんですかこれ!」
「前回は園から残業代が支給されるっておっしゃってましたが、今回はそうではないと思うので、本日のシッター代として受け取っていただければなと」
「いや、でも」
「正当な報酬額ですので。もし先生が他に副業をされていないのであれば、確定申告もしなくて済む額ですので大丈夫です!」

この一瞬で、一花の頭がそんなところまで回っているわけもないのだが、先にリスクを潰してくるあたりがこの男のやらしいところだなと思えてしまう。

「もし受け取っていただけないとなると、また理事長先生にお話しさせていただきますが」

先ほどと変わらない穏やかな顔でさらりと言われ、一花は眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。

「……ありがたくいただきます…」
「いえいえ、では一緒に食べませんか?」

流されているというには、水流が異様に早い。
徹の手の平で転がされているような感覚が消えないまま、一花は座り、徹と向き合った。

「そういえば、考えてくださいましたか?」
「…はい」

話は、受ける。
ただ、四月からにして欲しい。担任としてクラスに最後まで責任を持って見たい。
その思いを伝えると、徹は嬉しそうに頷いて聞いていた。

「あと、四月までは、今日みたいなことはもうしません」
「えっ」
「きっちり園を退職してからにしたいです。立場としては担任ですし、心ちゃんを贔屓しているかのように見えるのは良くないです。他の保護者の方もいますし、どこからこの状況が間違って伝わるか分かりませんし」
「確かにそれはその通りです!素晴らしいです!」

欲求は強引に通してくるくせに、感情の出し方は素直。
こんな一保育士のことも当然かのように褒めてくるので調子が狂う。

「今日みたいなことは、もうやめてくださいね」
「エッ」
「職場で気まずくなりたくないですし!理事長と繋がってるとかずるいです!」
「うちの父が古くからの友人なんですよぉ」
「なんですよぉ、じゃないです!恥ずかしいですし、食事も自分で用意しますから!」
「だって先生に美味しいお弁当を召し上がっていただきたくて…」
「〜〜美味しいですっ!食べたことないですし美味しいですけど!」
「美味しいですよね?僕も好きなんですよー!」

本当に、調子が狂う。
百八十センチ超えの、五つも年上の男がビシッとスーツを着たまま、綺麗な所作で弁当を口に運びながら犬のようにオドオドして喜怒哀楽をはっきり見せてくる。

ちゃんとしよう、そう思っているこっちがバカみたいじゃないか。


このお魚も新潟のお味噌で漬けられていて美味しいんですよ、とニコニコしながら勧めてくる徹に、微かにため息をついた。

確かに、美味しかった。
それが少しだけ、悔しかった。