「徹さん」
数日後、心が寝たあと、一花は徹の書斎のドアをノックして、そろりと開けた。
夜の書斎は、パソコンの熱とコーヒーの残り香が混じっている気がした。
徹はパソコンから目を離し、伸びをして、入ってもいいか躊躇している一花に、おいで、と優しく手招きをした。
「どうしたんですか?」
「ひゃっ」
一花が徹の目の前に立つと、腰に手を添えられ、気づいたら徹の膝の上に、後ろ向きで座る形になっていた。一花の逃げたくなる気持ちが分かっているかのように、徹の手はお腹にしっかりと回されている。
太腿の安定した硬さが伝わってきて、下手に動くとバランスを崩しそうだった。
「あの、恥ずかしいです…」
「今更じゃないですか?色々してるのに?」
「そ、そうですけど」
背中に徹の顔が当たり、すりすりと擦られてくすぐったい。
くすぐったいです、と言うと、じゃあこっち、と向かい合わせの姿勢に変えられた。
目の前に徹の上半身でいっぱいで、膝の上に乗せられているからか、いつもより徹の頭の位置が下にあって、見下ろす姿勢が新鮮だ。
ただそれはそれで恥ずかしいと思っていると、徹が一花の後頭部に手を回し、引き寄せるようにしてキスをした。
「一花さんが本当に可愛くて、どうしよう」
「どうしようって…」
「僕、本当にこんな気持ち初めてで」
恋人になってから、徹の口調が柔らかく、敬語が外れる時もたまにある。特に、最中は余裕がないのかそういうことが多く、一花はそれが少し好きだった。
「昔は遊んでたんでしたっけ」
「なんというか、まぁ、そんな直接的な言い方しなくても…」
一花は全く気にしていないのだが、この話題になると気まずそうに、戸惑うように言葉を選ぶ徹がなんだか可愛くて口元が緩んでしまう。
「徹さん、企業主導型保育園の話なんですけど」
「はい」
「ちゃんと、お受けしたいですって言ってなかったなと思って。よろしくお願いします」
「きっちりしてる一花さんも素敵です、分かりました。今度資料渡しますね」
徹が嬉しそうに、一花を膝の上に乗せたまま、開いてあったパソコンを片手で操作して、一つの資料を開いた。保育園についての内容が書かれているようだ。
現場の経験があるが、立ち上げからとなると、色々と知識をつけなくてはいけないな、と思いながら、一花は徹に抱きついた。
「素敵なお話をくださって、ありがとうございます」
「一花さんがいるなら、良い保育園になりますね」
「私みたいな保育士は、たくさんいますよ」
徹の肩に顔を埋めながらそう言うと、徹は少し笑って、一花の身体を離し、優しく唇を重ねた。ちゅ、という軽い水音が静かな部屋に響く。
「僕が選んだ一花さんだから、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
「僕だって、ただ肩書きが社長なだけで、社長なんか世の中にたくさんいますよ」
徹はそう言って、一花を抱きしめた。
甘いこの空間に、溶けてしまいそうだ。身体を重ねているわけでもないのに、キスをしているわけでもないのに、言葉で、徹の全てで自分が肯定されて、愛されている。
「あの日、心には可哀想なことをしたけど、一花さんに会えたことは、僕の人生の転換点です」
そう言って徹はいつもの笑みを浮かべ、一花の背中と膝裏に手を回し、そのまま立ち上がった。椅子が静かに軋んで、体重が移動する。
「わっ」
お姫様抱っこのような形で持ち上げられ、思わず徹の首に手を回す。
徹の腕だけで自分の身体が支えられていて、心許ない。重いのではないか、と徹を見ると、なんてことないように徹は言った。
「一花さん、思ってるよりやっぱり軽いですね、毎日お土産買って帰るのも、罪悪感持たなくて良さそう」
「そんなことないです、ていうかこの姿勢、こ、怖いんですけど」
徹はそう言いながら、書斎をスタスタ歩いて行く。
お姫様抱っことはこんなにも不安を感じる姿勢だったのか、私が緊張してるから?
される方も筋力がいるんじゃないか?などと現実的なことを思いながら、一花は徹にしがみつく。
「あ、ちょっとドア開けてくれますか?」
「ど、どこへ?」
「僕の部屋です」
「仕事は!?」
仕事はまた後でします、と言いながら徹の部屋の前で、早くドアを開けろと目配せされて、一花はそれに従ってしまう。
徹はベッドに一花を下ろし、隣に座った。
シーツはきちんと整えられていて、さっきまで誰もいなかった部屋の匂いがした。
「そういえば一花さん、さっき僕の過去の恋愛をからかってましたが、一花さんの過去の恋愛を聞いても?」
「えっ、別に、そんな」
「特に、まだ僕の会社にいるかもしれない元カレのこととか」
やっぱり根に持っていたか、と一花は眉を顰め、ベッドから立ち上がろうとすると、それを見透かしたかのような徹に腕を引かれ、そのままベッドに背中をつけて寝転がらされる。
「それはもう、良くないですか?」
「良くないです。僕、しつこいですよ」
「…知ってますよ」
徹が一花を見下ろすようにして覆い被さっている。
両脇には徹の手があって、ここから逃げるのは難しそうだと思った一花は、諦めて徹の首に手を回した。
視界の端に、天井のライトがぼやけて滲んだ。
そうでしたね、と徹は笑いながら言って、一花にキスをした。
くしゃりと顔にかかる徹の髪の毛を触りながら、だんだん深くなっていくそれを、一花は受け入れた。

