次の日から、もしかしたらまた避けられるかもしれないと少し覚悟を決めていた一花だったが、全くそんなことはなかった。
いつもの時間に起きた一花が洗面所で歯を磨いていると、徹が後ろから声をかけてきた。いつもより三十分ほど起きるのが早かった。
「一花さん、おはようございます。今日も朝から可愛いですね」
「すっぴんですけど…」
「え?お化粧してるかどうかなんて大した違いじゃないですよ」
「ありがとうございます…」
鏡に映る自分は洗顔後で髪の毛も適当に結んでいる上に、前髪も適当に止めているだけ。風呂上がりのすっぴんこそいつも見せているが、恋人になったとなれば、少しだけ意識してしまうのが乙女心だ。
徹も寝癖がついているが、その跳ねた髪の毛すらも、一花には愛おしい。
昨日の余韻がまだ身体に残っているみたいだ。
「んー、一花さん」
一花は簡単に髪の毛だけ整えて、いつものように化粧をして、キッチンに立っていると、スーツに着替えた徹がその後ろに立って背後から手を回して抱きついてきた。
ふわり、と自分と同じ柔軟剤の香りが鼻に残る。
「今日、お昼こっちに来ませんか?」
「え?」
「一緒にランチしたいです、会社の近くで」
「いいですよ」
それならもう少し化粧もしっかりした方が良かったか?後からアイシャドウの色でも足してみようか。そんなことを思いながら卵を溶いていると、一花の肩に顔を埋めていた徹の顔が少しだけずらされ、そのまま唇が合わさる。
「ん、」
少しだけ合わさったそれが、少しずつ深くなりそうになったところで、一花は身を軽く捩って、それを阻止する。自分の気持ちがしっかりしているうちに止めなければ、浸ってしまったら戻れなくなってしまう。
「えー」
「えーじゃなくて、心ちゃん起きちゃいますし。徹さんも今日は早いから、早く起きてきたんじゃないですか?」
「家を出る前に一花さんとくっつきたかっただけですよ」
「えっ」
そう言って徹は軽いキスを落とし、一花が徹のために用意しておいた、食パンの乗ったプレートと淹れたてのコーヒーを持ってダイニングに向かった。思いもよらない言葉だけを残され、身体の熱がじり、と高まったのを感じたまま、一花は心の朝食の用意を続けた。
その日一日、徹は甘かった。
行ってきますと心がリビングにいるのを確認してからのキス、ランチでは一花が美味しそうにパスタを食べる姿をニコニコと嬉しそうに見つめていた。
『美味しそうに食べる一花さん、すごい可愛い』
『僕のできることなら何でもしてあげたいです』
ランチの間も甘やかされる言葉たちが降り注ぎ、一花が受け止めきれずに変な顔をしていても、幸せそうに笑っている。恋人になる前も愛が重いとは思っていたが、それを超える致死量の愛で一花の周りが覆い尽くされているようだ。
「早く帰ってきちゃいました」
「わーパパ今日は早いー!」
上機嫌で帰宅した徹は、リビングから走ってきた心を満面の笑みで抱っこしている。一花は夕食の支度をしていた手を一度止め、徹からお土産ですと渡された焼き菓子を受け取った。
「仕事はいいんですか?」
「心が寝た後にやりまーす、ねー心」
「うん!パパお絵描きしようー!」
「しようしようー!パパお着替えだけしてくるからちょっと待っててー!」
一花は微笑ましい二人の会話を聞きながら、途中だったほうれん草を手に取って、三人で囲めるであろう食卓の準備を再開した。
「心、今日はなかなか寝なかったです」
「パパが早く帰ってきたのが嬉しかったんじゃないですか」
徹が心の寝室から音を立てないようにして出てきた。
いつもはこの後徹の夕食だが、今日は一緒に食卓も囲んだので、一花はコーヒーを淹れていた。
「そうかなぁ。頻繁に帰れるように出来るだけ調整しますね」
「それは嬉しいですが、無理せず」
「それよりも、パパって一花さんに言われるのもいいですね」
「何言ってるんですか」
ちょうどコーヒーメーカーが音を立てて抽出が終わったので、一花は徹のマグカップにそれを注いで渡した。仕事をすると言っていたので、きっと飲むだろうと思ったのだ。
「ありがとうございます、一花さんのも淹れて、僕の部屋行きませんか?」
「…仕事するんじゃないんですか」
「プライベートを充実させられない男が仕事なんかできるわけありません」
「また変な理屈を…」
一花のマグカップを棚から取り出し、徹がニコリと笑う。
心がいる時はもちろん心を優先している徹で、それにはなんの異論もないのだが、なんというか、心に対してと同じくらいの量の愛を感じる。
端的にいうと、溺愛されている。
昼間にも会ったのに、会いたくて仕方がなかった、恋しくて仕方がないみたいな顔をされると、一花も心が動かされてしまい、ついそれに流されてしまうし、そんな自分も状況も、なんだかんだ嬉しい。
「一花さん」
部屋に入ると、徹は持っていた二つのマグカップをサイドテーブルに置いた。
ほら、すぐに飲まないって、私わかってたのに。
雪崩れ込むようにベッドに押し倒され、降り注ぐキスと愛に、一花はそう思うも、息継ぎすることで精一杯になった。
「徹さんって…元気ですよね」
「褒め言葉として受け取りますね」
下着だけを身につけた徹が、布団にくるまる一花に水のペットボトルを渡した。
「私いつもすっぴんパジャマなので、もうちょっとちゃんとしてる時でも…」
「そもそも一花さんのことタイプですし、何してても可愛いって言ったじゃないですか」
そういえば、初対面の時もほとんど化粧なんか落ちかけで、髪の毛も適当に一つに結んでいるだけだった気がする、と一花は思い出す。
「徹さんもかっこいいですよ…」
「ありがとう、タイプではないんですか?」
直接顔を見て言うことは、まだ慣れていない。
布団で顔を隠しながら言った一花を見て、徹はペットボトルを置いて、また布団のなかに入ってきた。
「タイプとかは、元々よく分かんなくて…」
「あっ、そういえば、ずっと気になってたんですが、初対面の時に言ってた、僕が載ってたビジネス本を持っていた、うちの従業員、知り合いって言ってましたが元カレですよね?」
「えっ」
布団をもぞもぞと手繰り寄せて一花の顔を露出させた徹の顔は、目元は笑っているが心なしか、いつもの穏やかさがない。
「よく覚えてますね、そんなこと…」
「誰ですか?」
「いや、もう結構前なんで、まだいるかどうかも…」
「それも含めてグループ会社全部調べるので、名前教えてください」
一花は気まずさから、再度布団を顔まで上げるも、徹によってすぐに下げられる。なんだか嫌な予感がして、布団の中でTシャツを探した。そういえば徹によってベッドの脇に置かれたんだった。
「いやです、もしいたら嫌だし」
「いたらいたで顔見たいですから」
「変な感じになったら困るから嫌ですっ」
徹がこうなったらしつこいことは分かっているが、一花とて、これは譲れない。
必死に一花と視線を合わそうとしてくる徹の顔を掴み、一花からキスを落とす。
誤魔化されませんよ、と言った徹に面倒くさい顔も隠さず、一花はベッドから降りた。コーヒー温め直してきますね、と簡単に服を身につけ、徹の部屋を足早に出たのだった。

