シンデレラ・ララバイ

 
 
 
 
 
次の週末、心の希望によって動物園に行くことになった。
いつの間にか、週末もこちらで過ごすことが当たり前のようになっていて、前に自宅に戻ったのは、いつだったか。

「一花せんせえ、お弁当にミートボール入ってる?」
「うん、入れたよー!」
「えっ、お弁当作ってくれたんですか!?」
「あ、すいません…心ちゃんのだけ…」
「え??」

そんなやりとりをして家を出て、電車で向かう最中も、食べたかったなぁとこぼす徹に、家に余りがありますから、と嗜める。まるで本当の家族のように見えているんじゃないかと思えてくる。
改札を抜けるとき、無意識に三人分の距離を揃えて歩いている自分に気づいた。

それも徹の作戦なんじゃないかとすら勘繰ってしまいそうで、一花は心の喋り相手に意識を集中させた。

「僕とも今度、ピクニックに行ってくださいね。お弁当付きで」
「いいですけど…お弁当なんかいくらでも作りますよ…言ってもらえれば」
「そういうのじゃないんですよぉ」
「しつこいですねー」

動物園に入ってからも、一花はしつこい徹をいなしながら、心を追いかける。一生懸命な心が可愛くて、嬉しそうな徹を見るのが楽しくて、仕事としては休みなはずなのに、今は仕事なのかプライベートなのか、もう境目がわからないなと思った。





「普段、お昼寝しないのに疲れたんですかね」
「早起きしましたしねえ」

昼過ぎ、心は徹に抱っこをせがんだと思ったら、移動している間にうつらうつらと首が泳ぎ、数分後に寝てしまった。
徹はその様子を嬉しそうに見つめながら、一花に話しかけた。一花も一日の様子を思い浮かべながら返事をした。

そのまま動物園を出て、タクシーで帰宅することにした。
車内で徹のスマホに電話がかかってきて、すみませんと一花に断って電話に出た。
よく分からないビジネス用語が多く、一花にはあまり理解できない。

いつもより低く落とされた声が、車内の狭さを一段だけ際立たせた。
けれど先ほどまでの目尻に皺を寄せて、垂れ目を余計に垂らすようにして笑っていた徹とは違って、悔しいがカッコいいなと思えてしまう。


家に着いて心をベッドに寝かせても、起きることなく心は寝続けた。
よほど疲れたのだろう。僕たちもコーヒーでも飲みますかと、徹と二人でキッチンに立った。

コーヒーメーカーを操作する徹の隣で、何かお茶菓子があったはず、と一花は棚の中を探していた。取引先などからか、貰ったので食べてください、とよく持って帰ってくる焼き菓子があったはずだ。


お皿に綺麗に盛り付けよう、とコーヒーメーカーの前に立っている徹と、キッチンですれ違う際に、徹の手が一花のお尻に軽く触れた。

「ごっ、ごめんなさい!」

触れたとも気づかないくらいだったが、徹の声に反応して一花はそちらを見た。
偶然当たってしまったらしい。

別に軽く服の上から当たっただけだし、全然気にしていないんだけど、と思った一花だったが、徹の顔が少し赤いのに気づき、少しだけいたずら心が湧き上がる。


「照れたんですか?ちょっと当たったくらいで?」
「あっ、当たったくらいとか言ったらダメですよ」
「ふ、モテてきてるんじゃないんですか?雑誌にイケメン社長、なんて書かれてるのに?」
「あれは記者が勝手に…大袈裟な見出しでもつけないと、見られないからですよ」

徹は一花と目を合わせなかった。
ここ最近は徹に振り回されてばかりいたからか、それとは逆の立場になっているこの状況が、なんだかとても楽しい。

「徹さん、かっこいいのに?大袈裟かなぁ」
「かっ、」

コーヒーメーカーが音を少し立て、抽出が完了した音がした。
一花はクスリと笑って、棚から自分と徹のマグカップを取り出した。

ついでに、当初の目的だった焼き菓子を置くための皿も取り出し、それを持って移動しようとしたその時、今までこちらを見なかった徹が、くるりと身体を反転させ、一花の身体を引き寄せた。

「わっ」


一瞬の隙に、腰に手を回され、くい、と引き寄せられ、視界を占めるのは徹の整った顔だ。


「とお、」
「からかってますね?」


徹が力を込めると、一花の顔がそのまま徹の胸板にぶつかった。
柔らかい生地のシャツが頬に触れ、その奥に体温を感じる。


「…大人をからかってはいけませんって、保育園では教えないんですか」


そろりと視線を上げると、徹と目があった。
腰に回された、徹の手の温度を感じる。
お気に入りの、青のストライプのシャツワンピが、微かに擦れて音を立てた。

先ほどの焦ったような表情はもう消えている。
代わりにあるのは、熱っぽくて少し潤んだ、瞳。


こんな顔、する人だったの。


「…一花さん」

呼吸のリズムまで、重なっている気がした。

徹が発した言葉が、麗しいほどの湿度と熱を持って、一花に響く。
いつもの柔らかい目尻の皺は、今はない。

徹の顔がゆっくりと近づいてくる。


あ、やばい、どうしよう、動けない、

このままだと、キスされる。


思わず、ぎゅっと力を入れて目をつぶる。瞼の裏で、心臓の音だけが大きく跳ねた。
全身に力が入って、固まってしまったみたいだ。


「……避けて、くれないと…」


徹の、呟きのような声が聞こえて、額にふわりと髪の毛が触れて、唇には何も触れないまま、気配が遠ざかっていった。



目をそろりと開けると、徹が自分の手で顔を押さえていた。
一花の腰を掴んでいた力が、名残を残したまま緩む。


「…すみません……」


徹がそう言って、一花から離れた。
一花が出していたカップを手に取って、コーヒーを注ぎ始める。

コポコポとした水音が聞こえる。
静かなキッチンで、それだけがはっきりと響いていた。

一花はそのまま、徹から渡されたマグカップを受け取って、何も言わずにリビングから出た。

遅れて、空いた手で、一花は自分の顔を覆った。
嫌じゃなかった。
そう気づくも、戻る勇気はもうなかった。