シンデレラ・ララバイ

 
 
 
 
あれから、あのカフェの前は通りたくなくて、視界の端に看板が入るだけで、足取りが一瞬だけ鈍った。なんだか意識している自分が悔しくて。
それなのに心が、あのカフェのクロワッサンを気に入ってしまったから、あれから二度ほどあのカフェに足を運んでいる。

こないだはフレンチトーストを食べていたな、と思い出した一花が、徹にも、とクロワッサンダマンドや、ブリオッシュメロンパンなどの甘いパンを一緒に買って朝食に出すと、徹は嬉しそうに笑った。

「ごちそうさまでした、一花さん」

そう耳元で囁いてから出勤していった徹に、一花はまた顔を赤くする羽目になる。
声が落ちた位置をなぞるみたいに、耳の奥がじんと熱を持った。



『今日は中華が食べたいです』

そんな甘えたようなメッセージも、たまに送られてくるようになった。
献立に口を出してきたことはな買った。
僕のことは気にしなくていいので、心が好きなメニューで作ってください、と最初は言っていたはずなのに、買い物カゴに餃子の皮を入れてしまう自分が悔しい。

美味しいです、と言いながらおかわりをした徹に、一花は聞こえないふりをして食器を洗い続けた。




今日は家に絶対にいてくださいね、と言われ、意味がわからないまま言われた通りにしていると、コンシェルジュからタクシーのお迎えが到着しておりますと内線が入り、訳のわからないまま乗り込むと、外資系の、明らかに高そうなホテルに連れて行かれた。

言われるがまま、案内された通りのエステを受け、肌がもちもちになって、再度迎えにきたタクシーで帰宅すると、心とのお風呂上がりに帰宅した徹は嬉しそうに笑った。

「更に可愛くなりましたね」

そうニコニコして言い残した徹は、楽しそうに心の髪の毛を乾かしに洗面所に消えていき、一花はしばらくその場で動けなくなった。







愛が、
ものすごい、愛が、毎日襲いかかってくる。


それでいて、指一本触れられることもなければ、下心を見せてくることもないので。一花はどうしていいか分からない。

「タチが悪い…」

二十三時、今日は徹は遅くなるとの連絡があった。
一花は心を寝かしつけた後、リビングのソファに横たわりながら独り言をこぼす。


「…一花さん?…ただいま」
「あ…お帰りなさい」

徹がリビングのドアを静かに開けて入ってきた。
一花はソファから身体を起こすも、徹は、自分でやるから大丈夫ですよ、とダイニングテーブルの上に並べてある食器を手に持ち、キッチンに向かっていった。

「待っててくれたんですか?」

電子レンジにおかずの食器を入れてボタンを押した後、徹が振り返って一花に言った。
一応、と小さい声で答えたが、徹の家の家電は稼働音すら静かで、きっと耳に届いただろう。徹が笑う気配が聞こえた。


「ありがとうございます、一花さん…好きです」
「なっ」


なんていうストレートな表現で、愛を伝えてくるんだろう。
連日、行動と言葉で、いやでも伝わってくる徹の好意に、一花はその度に、身体が熱くなる。

徹は、知らない鼻歌を歌いながら炊飯ジャーを開けて米をよそい、冷蔵庫から取り出したいくつかの副菜と共にダイニングテーブルに置いた。


「なんで、ですか?」
「え?」
「なんで、私なんか…」


ずっと、胸の内に引っかかっていた言葉が、するりと出てきた。
寝心地がいいようにと徹が用意してくれていたパジャマが、ソファの上で生地が擦れた音を出した。


「私なんか…ただの保育士で、徹さんがすごいって言ってくれる専門知識も、保育士ならみんな分かることで…偶然、心ちゃんの担任だっただけで…社長で、毎日すごいことをしてる徹さんに、私、釣り合わないですよ…」


徹は、一花の言葉を黙って、動きを止めて聞いていた。
しばらく、何も言わなかった。
電子レンジが、温め終了の音を鳴らし、徹はそこから器を取り出して、ダイニングテーブルに置いた。


「…保育士さんの知識は、もちろん尊敬しますが、それは一花さんという存在の、付加価値なだけです」
「え?」

徹は一花がいるソファまでやってきて、隣に座った。
その振動と重みで、一花の身体が少しだけ沈む。

「一花さん、世の中は、偶然で溢れているんですよ」
「…?」
「僕は、偶然祖父が会社を経営していた家に生まれたから、たまたま社長になれた」
「そんなこと、」

徹は、軽い調子で続けた。
人一人分もない、けど身体が触れることもない距離が、徹との間にある。


「偶然、あの日スマホを忘れて、偶然、一花さんが当番で、偶然、送り届けてくれて、偶然、僕がお話ししてみたいと思っていた先生だった」
「…」
「いろんな偶然が重なって、人はその中で選択して、生きていくんです」
「…っ」

徹は、まっすぐ前に向けていた視線を、一花に移して、いつもの笑みを見せた。
一花は無意識に、パジャマを握りしめた。


「僕は一花さんを選んだ。好きです、一花さん」
「…とお、る、さん」


徹は、一花に向かって手を伸ばしかけて、やめた。
頭に乗せられそうだったそれが、元の位置に戻っていくのを目で追って、一花は無性に、名残惜しく思う。

ダイニングから、出汁の匂いが漂ってくる。
今日の夕飯は、生姜焼きだ。一緒に作った大根とさつま揚げの煮物が、奥のテーブルの上で、食べられるのを待っている。


「ちなみに、一花さんのことは最初からタイプでした」
「っは!?」

徹はそう言って、ソファから立ち上がった。
ダイニングに向かう後ろ姿は、いつも通りだ。
少し伸びた黒のTシャツが、徹の動きに合わせて揺れる。

「だから、何してても可愛いです」
「ちょっ、もう、」

一花は、手の中で歪められていたパジャマを離すも、何の抵抗もなく元のシワのない生地に戻っていった。
自分の部屋着には無頓着なのに、一花には、こんないいものを寄越しておいて。


「僕のこと、早く好きになってくださいね」


徹はそう言って、振り返っていつものようにニコリと笑った。
目尻に入った柔らかいシワが、少しだけいつもより深い。

そのままテーブルに着いて食べ始めた徹に、いつものように接する自信がなかった一花は、おやすみなさいとだけ残してリビングを出た。
消えゆく自分の声が、耳に入ってくる余裕はなかった。