次の日、いつもの時間に起きていくと、徹がリビングでパソコンを広げていた。
いつもよりキーボードを叩く音が小さくて、部屋がやけに広く感じた。
徹と自分の分の朝食でも作ろうと思っていると、徹がパソコンをぱたんと閉じて、一花を見てニコリとして、言った。
「一花さん、モーニングでも行きませんか?」
「美味しそう…!」
「喜んでる一花さん、可愛いですね」
サーモンの上にポーチドエッグが丸々と乗ったオープンサンドに興奮している一花にさらりと徹はそう言ったが、一花は反応できなかった。
オープンサンドにナイフを入れた。
家から徒歩五分ほどのところに、美味しそうなベーカリーカフェがオープンしたんですよ、と徹が連れて行ってくれたカフェだった。
テラス席に案内される。
平日だからか、店内は空いていて、大きなガラス窓から差し込む朝の光が、店内を透明感で満たしていた。せっかく天気がいいから、と奥のテラス席を選んだ徹が、フレンチトーストを、同じようにフォークで上品に切っていた。
「はい、美味しいですよ」
「…」
徹は、自分のフレンチトーストを切り分けて、メープルとホイップをたっぷりとつけて、一花の元に差し出した。
差し出したと言ってもほとんど唇に触れそうなくらいの距離までフォークが近づいていて、一花は少し考えたあと、それをぱくりと口に入れた。
無意識に息を止めたことに、口に入れてから気づいた。
「…美味しいです」
「良かったです」
優しい甘さのシロップと、ふわりとしたホイップが合わさって、柔らかい食感が口の中に広がっていく。口を動かしながらそう言った一花を、徹は嬉しそうに見つめた。
「…今日はお仕事は、いいんですか?」
「今日はゆっくりにしました。午後から少し出て、早めに帰りますよ。心の話も今日は直接聞きたいですし」
「…心ちゃんのお迎えは、今日はお昼前ですが、徹さん行きますか?」
「そうします、楽しみです」
一花は口の中の甘さをかき消すように、潰れたポーチドエッグをオープンサンドに乗せ直し、口に運んだ。
「…心ちゃんがいないから、モーニングに連れ出してくれたんですか?」
今日は朝食、準備しなくていいですよと今朝徹に言われた言葉を思い出し、一花は言った。
徹はその言葉に、一瞬不意を突かれたような顔をした後、苦笑した。
「…一花さんは、僕を買い被りすぎです」
「え?」
徹は、口元に笑みを残したまま、少し首を傾げて一花を見つめた。
「外なら、警戒されないかなと思って」
「え、」
「ついでに、朝から一緒に過ごしたら、その後も僕のことを考えてくれるかなと」
「…え、と」
さらりと言われたのに、胸の奥だけが遅れてざわついた。
なんと返していいか分からず、一花は徹から目を逸らした。
こういう雰囲気になった時に、どのようにしていいか分からない。
自分の顔は、きっと赤い。でもそれの意味は、まだ考えたくない。
「一花さん」
「…はい」
「…好きですよ」
背中に当たる椅子の感触が、急に心許なくなった。
テラス席からは、近くの公園の緑が見えた。
初夏の気持ちの良い風が、少しの湿度と共に、吹き抜けていく。
「いろいろ考えたんですが、高級レストランなどで伝えるより、こうやって、カフェでまったりしている時が、僕たちらしいかなって」
「…え、っと…」
徹は、一花にそう言って微笑んだ後、伏目がちにフレンチトーストに再度ナイフを入れた。温かさで少し溶けたホイップクリームが、皿に白い液だまりを作っていた。
「…いきなり、全てを背負わせる気はないので、僕の気持ちだけ、受け取ってください」
いきなりの言葉に、正解の返事が分からない。
だって徹とは、仕事で、たまたま、私があの日、心ちゃんを送ったことから始まって、
たまたま、私は、心ちゃんの担任で、
そういう、ことだったはずで、
「…ふふ、真っ赤です、一花さん。可愛い」
「……っ」
徹は、優雅にフレンチトーストを口に運びながらそう言った。
刃先が皿に当たる、かすかな音がやけに耳に残った。
一花はといえば、フォークに刺したままのサーモンをまだ動かせずにいる。
とろりと皿に広がった黄身の縁が、うっすら膜を張り出していることには、気づけない。
「外なのが残念だなぁ。誰にも見せたくないのに」
「っ!?」
徹の言葉に思わず、皿の上でフォークが滑る。
「ふふ、僕ってこんな感じなんですね。初めての気持ちだなぁ」
「なに、を」
皿の上から動かせなかった視線を、ようやく徹に向けた。
無造作に下ろされた、黒い柔らかそうな髪の毛が、テラスの日差しを受けて、少しだけ色素を透けて見せていた。
「なにって、一花さんにはこんな気持ちになるんだなっていう発見です」
「っそういうことを聞いたんじゃなくて、」
「フレンチトースト、もう一口いりますか?」
「だっ、大丈夫です!」
そうですかー、と少し残念そうに言った徹は目尻を下げて、最後の一口を口に入れた。一花はそれを黙って見つめることしかできない。
「そういえば、心が好きな、チョコのクロワッサンがあったので、テイクアウトに買ってきますね」
「…は、い……」
徹はグラスに残っていたアイスコーヒーを一口、ストローで飲んだ後にそう言った。
カラン、と氷が鳴る音が聞こえて、喉仏が微かに動く様子を、一花は見ていた。
そのまま動きを目で追って、立ち上がって店内に消えていった後ろ姿をしばらく見つめた後、一花は自分の皿に視線を移した。
「ど、どういうこと……」
一花の目の前に置かれた、アイスカフェラテのグラスは汗をかいていて、紙でできたコースターの色を変えていた。
フォークに刺さったままだったサーモンを、パンに乗せて、黄身をつけて口に運んだ。
どろりとした黄身が口の中にいつまでも残っている気がして、一花は急いで、カフェラテでそれを流し込んだ。
贅沢なモーニングなはずなのに、途中からなんの味もしなかった。

