シンデレラ・ララバイ

 
 
 
 
「一花さん、ただいま」
「…早く帰ってきても、心ちゃんいないって言ったじゃないですか…」

ガチャリとリビングのドアが開く音がして、徹がにこやかにスーツの上着を脱ぎながら入ってきた。
廊下の奥まで、人の気配が一つしかないことが、妙にはっきり分かった。


一花は洗い物をしながら横目でそれを見つめ、ため息をつきながら答えた。



今日は心は保育園のお泊まり保育という行事に行っているため、家には一花しかいない。前もって伝えてあったのに、何となく分かってはいたが、予想通り徹はいつも通りの時間に帰ってきた。

自分だけなら適当でいいかと思う夕食も、徹が帰宅しそうだなと思っていつも通り作っていたし、心がいないならと、つい徹が好きだと言っていた、ぶり大根を作っていた。心はブリは唐揚げにする方が好きなので、このメニューを作るのは初めてだ。


「心がいなくても、早く帰る理由がありますから」
「…そうですか」

温めたぶり大根をダイニングテーブルに置いた。
煮汁の匂いが立ちのぼって、台所の空気が一段、柔らいだ。
にんじんと油揚げの炊き込みご飯が、天井から吊るされたライトの光でツヤツヤと輝いている。

部屋に戻って着替えてきたらしい徹が、ダイニングテーブルの上の食事を見て、嬉しそうな声をあげる。

「あっ、僕の好きな、茗荷入りのお味噌汁もあるじゃないですか」
「…安かったので」

気恥ずかしくて、つい変な言い訳をしてしまう。
近所のオーガニックスーパーは安売りなどしていないというのに。

こないだ、徹と距離が近くなってから、私は何だか変だ。
きっと自分に正直になったら、素直に見つめたら分かることなのかもしれないけれど、悔しくて見ないふりを続けている。

「…私、部屋に」

戻ります。
そう言おうとすると、すれ違いざまに徹が一花の手を取った。
指先に残った体温が、思ったより長く残った。

「せっかく二人なんだし、お話ししませんか」
「お話…?」
「そう、いつもは心の話が多いから、僕の話でも」

掴まれた手首は、すぐに離されていた。
一瞬だけ熱を持ったそこを、一花は無意識に反対の手で摩る。

「はい…」

ちょっと待ってくださいね、と言って、徹がコーヒーメーカーをセットした。
いつも、徹が家で仕事をする時に飲んでいるものだ。


「ソファに持って行きますよ」
「ありがとうございます…」

徹は冷蔵庫から、先日自分で買ってきたチョコレートの箱を一花に渡した。
一緒に食べな、ということらしい。恭しく豪華な箱に鎮座しているチョコレートは、一花からすると一粒いくらするんだという貧乏根性で、なかなかバクバク食べられるものではなかった。

「ご存知かと思いますが、心は前妻との子で」
「ああ、はい…」

そうだろうとは思っていたが、保育園の書類でもそこまでのことが書かれるわけじゃないので、知っていたわけでもない。

徹は、一花の作った夕食を美味しそうに食べながら、なんてことのないように話す。
一花が座ったソファとダイニングテーブルとは少し距離があるが、聞こえない距離ではない。

「前妻とはお見合いというか紹介というか、まあ家の繋がりで結婚することになったんですが、まぁ、由緒正しいお嬢様だったんですよね」
「そうなんですか」
「可愛らしくて、世間の荒波を知らないって感じで。父の知り合いらしく、なんとなくずっとそんな話は出ていたので、僕もまぁそんなものかって感じで受け入れて結婚したんですが」
「…」

徹は淡々と箸を進めながら、淡々と生い立ちや家庭の話をした。
一花はテーブルに置いてあるチョコレートの箱に手をかけることなく、徹の話を聞く。

徹の家は、由緒正しいというほどでもなく、祖父の代から立ち上げた会社なので歴史としては、相手の家に比べれば短い。
なのでそこまで丁寧に裕福な環境だったかと言われれば、そんなでもない。と徹は言った。

「不自由ない暮らしではありましたが、お手伝いさんがいたとかでもないですし、多分一花さんが想像しているより、僕は普通の家庭で育ちましたよ。母の得意料理は鶏の唐揚げでしたし」
「そうなんですか…」

徹は話しながら、あっという間に食べ終えると、食器をシンクに置いて、セットされていたコーヒーを二杯注いで、ソファに持ってきた。

「ありがとうございます」

いつの間にか一花専用となっている深いオレンジのマグを渡し、徹は、一花の隣に腰掛けた。

「ただ、心が生まれて、前妻は育児ノイローゼになってしまって。自分だけの世界で生きてきたので、他者にコントロールされる生活が、耐えられなかったのかもしれません」
「そうなんですか…」
「二人で乗り越えればいい話だったんですが、あっさりと彼女は匙を投げた。僕は心と離れたくなくて、片方だけでも親の元で、と思って、一人で何とかしようという気持ちで、これまで生きてきました」

徹は、紺色のマグを傾けてコーヒーをすすった。
内容は重いのに、徹が何てことないかのように、夕食の話でもするみたいに言葉を発するので、雰囲気は重くない。

「一花さんにお願いしたときは、ちょうど新規事業が立ち上がったところで、忙しさのピークで…ずっとお願いしていたシッターさんも辞められてなかなか新規の方が捕まらず、大変な時期でした」
「え…」

徹の言葉に、一花は思わず身体が固まる。


以前、思わず徹に「調整してくれていれば」と口走ったことを思い出す。
そんな理由があったのかと思うとともに、それを言い訳にしなかった徹と、事情も聞こうとしなかった自分の浅はかさを思い知って、思わず目が泳ぐ。

「すみません、あの時、私、何も知らないのに…」
「ああ、僕も言わなかったことですし、知らなくて当然です」

徹はマグカップを片手に、ニコリと一花に笑いかけた。

「徹さんの会社のこと…あれから知りたくて、調べてみたんですが、難しくて…」
「え?」

いかんせん一花は保育士なので、大学も保育科、就職も保育園だ。
一般職のことについては疎く、どのような事業なのかいまいちピンと来なかったのだ。

徹が普段何をやっているのか、どんな仕事なのか、聞こう聞こうと思いつつも、先延ばしになってしまっていた疑問をぶつけると、徹はコーヒーをテーブルに置いて、目を少しだけ見開いた。

「事業開発とか、アセットマネジメント?とか…企業再生とか?あんまり分からなくて…」
「頭よく見えるように複雑に書かれているだけで、大したことはしてないですよ。というか、」
「?」

徹は、一花の方に身体の向きを変えて、ずい、と近づいた。
ソファのクッションが、その体重分だけ、静かに沈んだ。
一花は思わず少しだけ後ろに下がる。


「僕のこと、気になって調べてくれたんですか?」
「えっ」
「なんで、知りたいと思ってくれたんですか?」
「そ、そんな深く考えてないです!」

徹の口元は穏やかなまま、目だけが試すように細められていた。
目の前に広がる、リビングの広い空間に視線をやるも、視界の左側からじりじりと距離を詰めてくる徹の存在を感じて、頭が働かなくなる。

「じゃあ考えてみてください、なんでですか?」
「ち、近いです」

喉がひくりと鳴って、思ったより声が掠れた。
徹を視界に入れたくなくて、ふいと顔を反対側に向けた。


「教えて欲しいだけです」


声の調子とは裏腹に、間に流れる空気だけが、やけに粘ついていた。

さっきまで徹が食事していたダイニングが見えて、そこにも徹の気配を感じてしまうのは、私がおかしいからだろうか。

「一花さん」
「ぎゃっ」


名を呼ぶ前に、わざと一拍、間が置かれた。

左側から感じる圧に耐えていると、ふっ、と耳元に軽く息を吹きかけられるようにして名前を呼ばれ、肩から腕にかけて、ぞわりと熱が走った。


一花は思わず耳を抑えて徹の方を勢いよく向いた。

口角をきゅっと上げて、下から見上げるようにして、いたずらっぽく笑っている。
一花はテーブルの上のコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がった。
その拍子に、膝がほんの少しだけ震えた。

カップを戻す音が、必要以上に大きく響いた。


「コーヒー、ごちそうさまでしたっ」
「はい、僕洗っておくので」

なんなんだ、なんでこんなに掻き乱してくるんだ。

五歳も年上のはずなのに、まるで年下の男の子みたいな無邪気さで、でも大人の余裕も見せてきて、きっと徹は立ち去る私の姿も、いつも通りのニコニコした顔で見ているんだろう。

けど今の私には、それを確認する余裕などない。