「そういえば、心ちゃんって受験するんですか?」
数日後の徹の夕食時、一花は気になっていたことを問いかけた。
鯖を焼いた匂いが、少し遅れてダイニングに広がっていた。
シッターになって三ヶ月目、心も年長だ。
もし受験など考えているのであれば、そういう遊びも取り入れていった方がいいのかなと思っての問いだった。
「ああ、国立を一つだけの予定です。落ちたら近くの公立でいいかなと」
「そうなんですね」
「一次は抽選ですし、そこまでお受験という感じにはしたくなくて。心とは前から話していたんですが、何か気になることでもあったら教えてください」
「わかりました」
徹が名前を出したところは、家から通うには少し遠いし、バスなどもないので基本的に子どもが一人で通わなければいけない。
一花はあまり知識がないので、少し情報収集をしなければいけないな、と思っていると、徹が鯖の塩焼きを口に運びながら、一花に言った。
「心、なにか言ってました?」
「あ、いえ…来年度、私はどうしたらいいのかなって考えてて。もし必要なくなるとかであれば、就職先を探さないとなと思っていたので…」
「え?」
一花の言葉を聞きながら、姿勢良く白米を口に運んでいた徹の箸が止まる。
箸先から、白米が一粒だけ落ちて、音もなく皿に残った。
いつもより少し低い声に、一花は、何となく外していた視線を徹に戻す。
「?」
「辞めるんですか?」
「え?いや、必要なかったら、そうなるのかなと思ってたくらいで…」
「必要ないわけないです」
徹はそう言って、豆腐とわかめの味噌汁を、勢いよく飲み干した。
皿を見ると、すべて空になっていたので、一花は立ち上がった。
「そうです、か。良かったです」
徹はいつも食器をシンクまで下げてくれるので、キッチンに移動した。
皿を食器棚に仕舞うのが途中だったことを思い出し、皿に手をかけると、徹が皿を持ってキッチンに入ってきた。
「志望校でも公立になっても、下校は十五時前後なので、家にいてくださると助かります」
「わかりました」
送り迎えはどうするのだろうか、そうふと頭に浮かんだ疑問を問いかけようと、徹に視線をやると、徹も一花を見ていた。
いつもより鋭く、まっすぐ見つめてくるような視線に思わずたじろぐ。
「…辞めないでくださいね?」
「あ…はい…」
「一花さんがいない生活、考えられないって、言いましたよね?」
「え…は、はい…」
徹がそう言ったのは、そんなに、前の話でもない。
つい一ヶ月前くらいのはずなのに、あれから随分、徹の態度は変わった気がする。
「心も、そうだと思いますが、特に僕が」
「や、は、はい」
徹はダイニングテーブルから持ってきた食器をシンクに置くと、一花の方に、じり、と一歩近づいた。
一花は思わず、手に持った食器を台に置いて、反対側に後退りした。
本能が、そうさせた気がした。
「一花さん」
「な、なんですか…」
「ふっ、なんだと思いますか?」
「なにって…」
徹が一歩近づくたびに、一花は一歩下がる。
いつまでも続くはずのない攻防戦だったが、一花の後ろは、もう壁だ。
そうだ、今日の公園で面白い話があったんだった、それを話したいと思っていたんだった。そう思っても、到底口に出せる雰囲気ではない。
「ふ、警戒されてますね、僕」
「え、いや…」
徹は口角を上げてそう言った。
さっきから一花の口から漏れるのは、言葉にならない音だけだ。
張り詰めたような空気が、二人の間にあって、それを崩さないように、心を防波堤にして耐えてきていたのに、
あの日のように触れられてしまったら、もう、私は、
「…いなくならないで下さい」
調理台の縁が、腰のすぐ後ろに当たった。
ちょうど一花の腰あたりまであるそれに、徹は一花を挟むようにして、両脇に手を着いた。
身体は一切触れていない。
前のめりな体勢の、徹の部屋着が、一花のTシャツに、かすかに触れている。
「あ、の」
「ずっと、いてください」
泳ぐ視線を、少しだけ上に持っていくと、徹と目があった。
身体に電気が走ったみたいに熱くて、空気に触れているすべての場所が、敏感になったかのようだ。
「いちか、さん」
徹が少しだけ顔を近づけた。
先ほどよりも、徹の吐息を間近に感じて、息ができなくなりそうだ。
真ん中で無造作に分けられていた髪の毛が、さらりと徹の目にかかっているのに、その奥から、突き刺さるように届く視線が、怖い。
「いなく、ならないですから…っ」
自分が、どうなってしまうのか分からなくて、どうしていいか分からない。
咄嗟に口からこぼれ落ちた言葉は、ひどくか弱く、小さな音だった。
「…ほんとうですか」
「はい、私からは、や、辞めないですから…っ」
だから、私がおかしくなる前に、離れて欲しい。
いくらでも、どうにでもできる力のある男が、
シッターを私に頼んできた時みたいに、権力や言葉で逃げ道を塞いできた男が、
「…ありがとうございます」
そんな懇願するみたいな声で訴えて、距離を縮めて、眉を下げて、困ったように笑わないでくれ。
「すみません…」
そんなふうに笑った後に、謝罪の言葉を述べるんだ。
一花がそう思った時には、徹はニコリといつもの笑みだけ残して、リビングから静かに出ていった。
反っていた姿勢のせいで、腰に少しだけ残る違和感と熱を、見ないふりをした。
一花は静かにシンクまで歩き、置かれた食器を洗おうと水を出す。
蛇口に当たる水が、シンクの底で跳ね返る。
勢いよく流れて溢れていくその音は、さきほどのどの音よりも大きかった。

