次の日、徹はゆっくり寝てていいと一花に言ってくれて、朝から、起きた心と一緒に、部屋の露天風呂に入っていたみたいだった。
いつもよりゆったり朝食をとり、美術館に行って楽しんだ。心はとてもはしゃいでいて、来て良かったですね、と徹は満足気だった。一花もそう思った。
徹は月曜に箱根で仕事だというのに、日曜の夜に心と一花を連れて、箱根から自宅まで送ってくれ、心が寝ついて、徹も箱根に戻っていった。
ついでだからと言っていた旅行だったが、ほとんど心と一花のためだったんだろうと、一花は後から思った。
静かな部屋は久しぶりで、誰の気配も感じないのが寂しくて、一花もその日は早く就寝した。
廊下の電気を消すと、家の奥まで音が吸い込まれていく感じがした。
よっぽど楽しかったらしい心は、次の日の朝起きてからも温泉や美術館の話をしていて、それを感じた一花も嬉しかった。
次の日の夜、徹の帰宅は二十三時を過ぎていた。
「ご飯、ありますか?」
「一応…何時に帰るか分からなかったので…」
「嬉しいです、それ食べたいです」
この時間まで何も食べて来なかったのか、食べる時間もないほど仕事に追われていたのか。一花は、冷蔵庫にしまっていたおかずを慌てて取り出しながら問いかけた。
「言ってくれれば、用意しておきますよ?」
「でも遅いし、もう寝てるかなあと思って」
「別に、そんなこと…」
それに今日は、お礼を言おうと思って、あと、心が楽しんでいた様子を直接伝えたかったから、待っていたのに。そう思っても、うまく言葉にできずに唾だけを飲み込んだ。
「こんな遅くなるなら、泊まってきても良かったんじゃ…」
「へへ、そうなんですけど…もし、一花さんが起きてたらお話ししたいなあと思って」
「…そ、」
電子レンジから取り出した、煮物が入った食器が思ったより熱くて、指先に力が入る。ごめんなさい忘れてくださいと言っていた男は一体どこに行ったのか。こうも素直に気持ちを言葉にされ、返答は特に求めていないような顔をされると、何となく居心地が悪い。
徹は一花からご飯と汁物の茶碗を受け取り、ダイニングテーブルに着いた。
一花は、まだ熱を持ったままの指先を気にしないように、おかずの入った器をその前に置いた。
「一花さん、また、一緒にお出かけって、行ってもらえますか?」
「……それは、…」
どういう意味ですか。そう言いたかった言葉は、喉の奥に吸い込まれていった。
家政婦さんが作ってくれた副菜もあったな、と冷蔵庫の中からタッパーとお茶を取り出していた時だったので、その問いは急で、一花の身体は一瞬で固まる。
別に変なことを言われたわけでもない。
一花が、ただ、頭の中で昨日の、浴衣姿の徹の姿を反芻していたから反応が遅れただけの話で。
「…仕事か、そうじゃないかですか?どっちに取ってもらってもいいですよ」
「や…」
「僕は、どっちでも嬉しいので」
「え…」
徹は、キッチンに背を向けて食事をしていたようだったが、そう言って、振り返った。一花の手に持ったままのお茶の保存容器が、小さく水面を揺らした。
キッチンの手元灯りが、徹の肩口だけを切り取って照らしていた。
「…一花さんが、いてくれるなら、仕事でも」
「……なんですか…それ…」
頬が熱い気がするのは、きっと気のせいじゃない。
今すぐ手に持っているこの液体を頭から被ったら、少しはこの熱も冷えるだろうか。
徹は一花の様子を見て、ふ、と少しだけ笑みを漏らすと、立ち上がって一花のいるキッチンまでゆっくりと近づいた。
スリッパの音が止み、一花の目の前に立った徹が、開いたままだった冷蔵庫の扉を優しく閉めて、一花からタッパーを一つ、受け取った。
「…一花さん」
「は、い…」
一花は、目の前に広がる徹の黒い部屋着を見ることしかできない。
少しだけ毛羽だった、薄くなった色の生地が、一花の視界を占めている。
「…おやすみなさい、待っててくれてありがとう」
徹は、空いている方の手で、一花の頭をぽん、と置くようにして撫でた。
一瞬で離れていったそれは、力はかけられていなかったはずなのに、感触がまだ残っている気がして、一花は自分の唇を薄く噛んだ。
冷蔵庫のモーター音だけが、さっきより少し大きく聞こえた。
風呂上がりの、少し広がった髪の毛が自分にひどくまとわりついている気がして、そういえばすっぴんだったと、何度も晒している顔が急に気になって、片方の手を顔に無意識に当てた。
徹はもう片方の手で、一花からお茶の容器を受け取り、ダイニングに戻っていった。
ぴちゃ、と静かなリビングで水音が目立つ。
一花は逃げるようにして、フローリングを滑るスリッパの乾いた音も気に留めず、自室に戻った。
部屋に戻っても引かない熱を振り切るように、ベッドに飛び込んで、布団にくるまって、目を閉じた。

