成宮一花、今年三十歳になります。
職業、どこにでもいる保育士。
いる場所、ドデカマンションの前。
「ここが、心ちゃんのお家…?」
「うん!」
東京の港区。
お金持ちが住んでる街ではあるし、そこに勤務はしているが、決して一花は裕福ではない。
「…どうやって入るの?」
「ふつうに入るよ!」
「普通に入るよね、そうだよね」
一花の隣で手を繋いでいるのは、西折心、四歳。
天然パーマのふわりと揺れる髪の毛がくるくるしていて、それをいつもきっちり二つ結びにして登園してくる。
普段の保育園の光景とは逆で、心が一花の手を引き、慣れた道を真っ直ぐ進んでいく。
一花の勤める保育園では、延長保育中は子どもを二人以上で見なければならない決まりがある。
今日の遅番は一花ともう一人のパート職員だったが、閉園時刻を過ぎても心の迎えは来なかった。
父親にも連絡がつかず、結局園長の判断で、一花が送り届けることになった。
残業代は出る。でも正直、こんな展開は想定していなかった。
入り口でカードキーをタッチするとドアが開錠され、自動で開く。
隣の大きな扉はきっと車用なのだろう。
そのままスタスタ歩く心がエントランスを通過すると、さらに奥の扉が自動で開いた。
「鍵いらないの…?」
「カバンに入ってると勝手に開くよ」
「そうなのね…」
「一花先生のおうちはー?」
「先生のお家のドアはガチャって鍵を回すよ…」
「そうなんだ!」
何の偏見もなく、無邪気に納得して笑う心の姿に、一花は感じたくない格差を実感して心なしか胸がズキズキする。
当然のように存在するコンシェルジュがお辞儀をし、ぎこちなく一花はそれに返す。不審者に見えていないだろうか。
こんな、一日メイクも直さず、髪もひとつにまとめただけの女、ここを通ること無さそうなんですけど。
「パパは何時に帰ってくるのかな?」
「わかんない、おうちにスマホあるから、それで聞いてみる」
「そっか、分かった」
心の家庭はシングルファーザーだ。
今時それは珍しくもなく、シッターさんが迎えにくることが殆どだった。
「ここだよ!」
エレベーターで二十階まで昇った。
ガラス張りの中庭が見え、おしゃれな照明や絵画が飾ってある廊下を長く進んだ奥にあった扉。
心が小さなリュックの奥のポケットから取り出したカードをタッチして開けた。
「せんせい、今日はお泊まりしてね!」
「先生お泊まりの用意して来てないよー」
「心のお洋服貸してあげるよ!」
「着れるかなぁ?」
今の時代、家庭訪問なんてものはなく、子どもの家の場所こそ把握しているものの、そこに足を運ぶことなど基本ない。
保護者に無断で、いけないことをしているような気持ちになってしまうが、心の純粋さと可愛さに救われる。
心の帰宅後のルーティーンを聞き、父親が帰ってくるまでそれに従った。
お風呂から上がった心が、ふわふわのタオルにくるまってリビングへやってくる。
「せんせい、パパのこと好き?」
「うーん、会ったことないからなぁ」
「かっこいいんだよ!」
「そうなの?」
「でもずっとお仕事してる」
そう言って、心は少しだけ眉を下げた。
四歳のその顔に、一花は何も言えなかった。
代わりに頭をくしゃっと撫でると、心はすぐにまたにこっと笑った。
就寝まで済ませて時計を見ると、もう二十二時を回っていた。
「お仕事、長引いてるのかな…」
一花がいることで心ははしゃいでいて、ぐずるなどは無かったことが幸いだった。
人の家に戸惑いながらも、スムーズに就寝まで終わらせ、誰もいない広々としたリビングで心の父親の帰りを待つ。
「心ちゃん、いつもシッターさんと過ごしているのかなー」
ツルツルとした大理石のようなダイニングテーブルに肘をつき、心の家庭環境について思いを馳せていると、バタン、と遠くで玄関のドアが閉まる音がして、一花は立ち上がる。
とりあえず事情を話して、理解を頂かないと。
「ただい……」
リビングに入ってきた男性は、背が高く、思っていたより若かった。
一瞬だけ、整った顔だと思った。次の瞬間、その顔が驚愕に歪んだ。
そりゃそうだ、知らない女が自宅にいるのだ。
息を吸って、事情を説明しようと思った瞬間、
「だっ、誰ですかーー!!!」
「わー静かにしてください心ちゃん起きちゃいます!」
「心に何が!?誰ですかストーカーですかセコム押しますけど!!!」
「待ってください!心ちゃんの担任保育士です!!!」
明らかに戸惑い、パニックになった様子の心の父の声量が大きく、宥めた自分の声もそれに負けじと必死になるあまり大声になる。
心の担任保育士、という言葉に、切長の目を大きく開いて動きが止まった父親。
一花は落ち着いて、状況を説明することにした。
幸いにも心は起きてこなかった。
「ほほほ本当にごごご迷惑をおかけし申し訳ございません、ぼ僕がシッターさんからのキャンセル依頼があったことを、みみみ見落としており、プライベート用のスマホも会社に置き忘れてきてしまっていたようでご連絡にも気付けず…」
「落ち着いてください大丈夫です」
ダイニングテーブルにお互い座って状況を説明すると、心の父親は深く頭を下げながら、謝罪の言葉を述べた。
じっくりと父親の顔を見て、なんとなく見覚えがあった顔だった。
一花は記憶を手繰り寄せ、思い出した単語がポロリと口から溢れた。
「ノースゲートの社長…」
「えっ、メディアにはあんまり出てないのに、なんで知って、」
「あ、前にビジネス本で特集されていたのを拝見して…」
「あ、そうでしたか…ビジネス本なんてつまらないもの、先生もお読みになるんですね」
「あ、いえ、元…知り合いが…そちらで働いていまして、その本を見せて頂いたんです」
そうだ、元彼が働いていた会社の社長だ。
付き合っていた頃、家にビジネス本が置いてあって、うちの会社が載ってると自慢げに見せてきたことがあった。
「そうでしたか。それは光栄です。改めまして、心の父、西折徹と申します」
「あっ、すみません、心ちゃんの担任の、成宮一花です」
一瞬怯えた顔をした徹は、すぐに穏やかでにこやかな顔に戻り、礼儀正しく挨拶をした。
ビシッとキリッと怖いような、よくある「社長」のイメージとはかけ離れていて、特に先ほどの慌てっぷりは面白く、そのギャップを思い出して笑みが溢れた。
「?何か…」
「ごめんなさい、さっきのお互いの慌てっぷりを思い出してしまって…」
「そうですよね…ついパニックになってしまい…本日も本当に、一花先生にはご迷惑をおかけしてしまって…」
「いえいえ、もう本当に大丈夫ですよ。シッターさん、大変でしたね」
徹は眉を下げて、そうなんです、と言った。
弱々しさを感じるその声に、つい保育士としての共感の気持ちで接してしまう。
「良い方なんですが、以前も急にキャンセルされてしまって…夕方から夜の固定の方を掴まえるのも難しくて…」
「そうなんですね」
「心、偏食でしょう?夕食も大変でしたよね」
「そうですね…心ちゃんはバナナが好きなので、それと交互に食べるようにしてみたり、ちょっと野菜の歌を歌いながらとかしたら、完食してくれましたよ」
「えっ、あの用意してあった野菜、食べたんですか?」
「え、はい…」
徹は驚いた顔をした後、顔に手を当てて考え込む素振りをした。
毎日残しているのかな…?と、徹の口ぶりから予想しながら顔色を伺っていると、徹は少しだけ息を吐いて姿勢を正した。
「一花先生」
「はい」
「失礼を承知でお願いするのですが」
「…はい?」
「心のシッターをやっていただけませんか?」
「え?」
想定外の申し出に固まる一花に、矢継ぎ早に言葉が続く。
「家政婦さんに作って頂いている夕食なんですが、一度も完食していないんですよ。シッターさんも急なキャンセルが多い方で信用できませんし、一花先生でしたら、心も信頼してお話も聞けるようです。何より僕が安心できます」
「い、いえ、私働いていますし…」
「もちろんお給料は出します。通勤についてですが、一花先生のご自宅はどちらですか?もし遠いのであれば、こちらの近くに僕がお部屋をご用意しますよ。うちも部屋が余っているので、泊まっていただいても構いませんし」
「いや、そんな…」
なんだ、この目の前の男は。
一花が返事を考えている間にも、次の言葉がもう投げられてくる。
「懸念点としては、一花先生の体力ですよね。保育園の方の勤務をもし減らしたとしても、それを上回るお給料はご用意しますし、もしご勤務が大変であれば、お辞め頂いてもお給料は保証いたしますし」
「いえ、そんな急に辞めれませんし…シッター一本というのは…」
「それでしたら我が社に勤務という形にしていただければ、職務経歴に傷もつきませんし、社会保険などもつけられますよ」
「いや、そうだとしても急には辞めれませんし…」
「責任感がおありなのですね、ますます安心しました。では年度末まで勤務して頂くなどいかがでしょう?理事長とは古い付き合いですので、ご希望でしたら僕からお話も通せますよ」
「えっ、でもあの、心ちゃんがいいかどうか…」
「いいに決まっています!シッターさんの報告書には担任の先生のお話をよくしていたと書かれていましたし、ご不安でしたら明日、心に聞いてからでも」
「か…考えさせてください…」
「もちろんです!先生に安心していただけるように、雇用契約書も事前にご用意いたしますね。失礼ですが保育士さんのお給料は、仕事量に見合っていないとお聞きします。我が社の標準の給料で算定いたしますので、ご安心ください。もし今後、転職をお考えになられた際も役立つかと思います」
さっきセコムを呼ぶと騒いでいた男性と同一人物とは思えない。
まるでプレゼンを受けているみたいだ。
私に失礼な言葉などは一切なく、でも確実に、じわじわと逃げ道を塞がれていくような、圧がすごいような感覚に、無意識に背筋が伸びて、じわりと手が汗ばむ。
「一花先生、そういえば夕食はどのように…?」
「帰ってから食べます…」
「それはいけません、ごめんなさい僕気づかなくて、今すぐデリバリーで何か頼みます!そして待ってくださいお礼もしなくては」
「いえっ、大丈夫です!一応勤務なので、残業申請しますし、ご迷惑にならないうちに帰ります…!」
「ダメです待ってください、もうデリバリー頼みました」
「早い!この一瞬で!?」
「僕、仕事は早いって言われていて…」
恥ずかしそうに言った徹の姿からは、有無を言わせない圧を感じて、一花は諦めて椅子の背もたれにもたれた。
今日が金曜日で良かったかもしれない。
なんだかとても疲れたし、とんでもないことになりそうだ、と一花は上質な木でできた椅子に背をつけた。

