【短編小説】貴方の鼻唄

ここは、海のすぐ近くに建っている総合病院。
一際有名な病院であると、上司が言っていたような。
なんでも、病室から見える海の景色が絶景なのである。それを望んで入院する者も少なくはないようだ。

俺は新しくこの病院に赴任された。まだ入って1ヶ月も経っていない。見慣れない廊下を歩いていると、年老いた上司が俺を呼び止めた。彼はこの病院に何年も勤めており、その経歴は当院の院長に続くほどなのだとか。
 
「神田くん。このカルテ、頼んでも?」
「河原木先生、承知しました。拝見させて頂きます」

上司からカルテを受け取り、簡潔に目を通す。そして直ぐに視界に飛び込んできたのは、患者の入院歴だった。

入:20XX年

今から11年前では無いか。思わず驚いて上司の方を見ると、彼は少しばかり表情を曇らせ、目を伏せた。
 
「、、、あぁ、何年も前から入院している。初めに来たのは、あぁ、7歳の頃だったな。今となってはもう18歳だ」

そんな事情を抱く患者様を、何故私に?と上司に言いたかった。当然と言えば当然である。今年赴任してきたばかりの俺に任せること自体不思議に感じた。
しかし尋ねようとした時、上司は言葉を紡いだ。

「君は、医師として働いて5年ほど経つんだったね」
「はい。そうです」

「──うむ、やはり君に頼もう」

全くと言っていいほど彼の意図が分からない。だが、頼まれたからには遂行せねばならない。歩き去って行く上司をただ目で追いながら、俺はそんなことを考えたのだった。

「確か、ここら辺、、あぁ、あった。随分と奥にある病室だな」

彼女の病室は他の患者の病室よりも少し遠い所にあった。挨拶をすべく、長い廊下を歩きながら手元にあるカルテの内容を脳内で思い出す。

患者の名前は──櫻乃、と記入されていた。苗字が無く、名前だけであった。情報を見て、これまた首を傾げたが何か事情があるのだろうと脳内で処理をし、考えないようにした。

病室へ向かうにつれ、海に近くなっていく。患者は海沿いを希望したのだろうか。しかしそれにしてはやけに他の海沿いに入院している患者と距離が離れすぎている。


襟を正し、病室の前に立った。
然し、ノックをしようとした手は動きを止めた。
 
患者の、少女の、鼻唄が聞こえた。

扉越しでは小さくてよく聞こえないが、とても気持ちよさそうに唄うのだな、と頭の片隅で想う。

軽くノックをし、そろりと扉を開け中に入ると───

椅子に座って窓から海を眺める少女がいた。
彼女は未だに鼻唄を続けており、透き通った声なのだと実感する。
風が窓から吹いてきてその髪が靡く。彼女の輪郭が露になる。

そして暫くすると、彼女は此方を向いた。

俺は驚いた。
彼女は、まるで病人とは思えないほどに綺麗な顔をしていたのだ。
外出はできないため肌は白いものの、ほんのりと赤く色づいた頬、唇に、筋が通った鼻、長い睫毛で覆われた瞳。少女を見つめていると、目が合った。彼女は俺を見て微笑んだ。

「初めまして。主治医の先生の代理の方ですか?」
「、、ぁ、いえ、今日から、私が主治医となりました。神田、と申します、」

その少しばかり薄い色をした瞳が俺を捉える。少女はすっと立ち上がり、軽くお辞儀をした。

「神田先生。初めまして、櫻乃、と申します。これからよろしくお願いいたします」

頭をあげると、ゆっくりと此方に歩み寄る。俺のすぐ目の前で止まると、俺の片手を両手で優しく包み込んだ。

「長い付き合いには、なると思いますが」

少女は花のようにふんわりと微笑んだ。儚げなその表情が俺の胸の奥を締め付けた。

そこからは、少しずつお互いの事を知っていった。
 
彼女が不治の病を抱えていること、俺がまだ医者になって5年しか経っていないこと。
 
彼女は音楽が大好きで、いつか大きなコンサートに行きたいこと、俺が趣味でクラッシックをよく聞いていること。
 
将来は研究者になって不治の病の研究をしたかったこと、俺の元の志望が化学者であったこと。
 
全てが心を満たしていった。いつの間にか彼女は控えめな笑顔を見せることが少なくなり、満面の笑みを浮かべることが多くなった。俺もまた、彼女の前では着飾ることがほとんど無くなった。
しかし、彼女について知ったのは良い事ばかりではなかった。
 
"私は親に見放されたから、苗字を持っていない"

彼女は確かにそういった。
俺はそれ以上を言及しようとは思わなかった。何故か。今、彼女が楽でいられるのなら、親のことなど思い出す必要もないと判断したからだ。

それから更に数ヶ月後。
とある日の事だった。いつも通り椅子に座って二人で話していた時のこと。彼女は急に俺に珍しい質問をしてきた。

「ねぇ、先生」
「ん?」
「先生ってさ、好きな場所とかあるの?」
「好きな場所、、かぁ───今は、此処かな」
「え、?」
「櫻乃と話してると楽しいし、色んなこと知れるし、、櫻乃がいるこの空間が、1番好きな場所」

流石に攻めすぎただろうか、と彼女の顔を見た。
そして、息がひゅ、と詰まった。

彼女は泣いていた。
それも、ただこちらを見つめたまま、綺麗な雫を零していた。

「ぁ、ごめん、嫌だったよな。戸惑っちゃったよな」
「ちがうの、せんせ」

え、と俺が聞き返すと、彼女は、櫻乃は俺に優しく抱き着いた。突然のことに動揺を隠せないまま、動けずにいた。櫻乃の唇が耳元に寄って、そして彼女は言葉を発した。

「大好きだよ、先生」
「、!」
「嬉しいの。私のことを必要だって思ってくれるのが」
「櫻乃、、、俺は、」

その続きを言おうとした瞬間、突然ぐったりと彼女の力が抜けた。滑り落ちそうになった彼女を咄嗟に支えると、ベッドまで運び、寝かせた。

「櫻乃?櫻乃?おい、櫻乃!」

俺がいくら声をかけても、彼女の目は開かない。俺は震える手でナースコールを押した。そして彼女の名を呼び続けた。
呼吸音が聞こえない。心肺蘇生を行うが、一向に起きる気配は無い。いつまでも、彼女の目が開くことを信じて名前を呼び続けた。


彼女は亡くなった。
後ほど上司から聞いた話だが、櫻乃が言い渡されていた余命はとっくに超えていて、いつ心臓が止まってもおかしくなかったという。

俺は絶句した。大切な1人の人間を手放したのだ。
 
あの明るい笑顔を見ることはもうない。
あの透き通った声を聞くことはもうない。
あの柔らかな手に触れることはもうない。

悔しさが勝って、でも悲しさも込み上げてきて、脳内がぐちゃぐちゃになって訳が分からなかった。

上司は俺に1週間の休暇を設けた。
"自分に蹴りをつけてきなさい"との事だった。
 
俺は彼女を連れていきたかった場所を巡った。
巨大な音楽館、ホール。
自然に包まれた森の中。
そして、病室から見えるあの海。
いつか砂浜に彼女を連れ出して、彼女が目を輝かせて海を眺める姿を見たかった。

1週間後、俺はまたあの病室に戻ってきた。どうもこの場所には櫻乃との思い出が多すぎる。そんな幸せで包まれた場所だ。

「┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈」

何処からか彼女の鼻唄が聞こえたような気がして、無意識に其方を振り向いた。
彼女はまだ傍にいてくれるのだと、そう実感した。

待っていて、櫻乃。
俺は必ず自分のやるべきことを全うし、全ての過程を終了した時、貴方に会いに行く。そしたら今度こそ伝えさせてくれ。
俺は、貴女のことが好きであると。愛していると。
そしていつしか生まれ変わったら、貴女に逢いに行く。

手元の机を見ると、桜が舞い込んでいた。
あぁ、そういえば今日は、貴女と出会った日から丁度2年が経っていたな。