佐原の後ろ姿が見えなくなっても、
俺はしばらく動くことができなかった。
あいつのあんなに脆い顔、初めて見た。
突き飛ばしてでも奪い返そうと思っていた俺の熱は、行き場をなくして急速に冷えていく。
「……大丈夫、か?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低くて優しさに欠けていた。
まだ少し肩を震わせている海緒を気遣いながらも、俺の心の中には、あいつに向けられた彼女の「優しさ」を恐れる気持ちが澱(おり)のように溜まっている。
海緒は、濡れた手をぎゅっと握りしめたまま、
俺を見上げた。
『私は平気……ですけど。佐原先輩……すごく、思い詰めたような顔をしていて……』
その瞳に浮かんでいるのは、
自分を怖がらせた男への「恐怖」ではなく、あいつを思いやる「心配」の色だった。
それが、俺の胸をチクりと刺す。
海緒は、佐原が抱えていたものの正体には気づいていない。
でも、彼が放った「痛み」だけは、
真っ直ぐに受け取ってしまったんだ。
「……あいつ、馬鹿だからな」
俺は、彼女を安心させるように、
わざとぶっきらぼうにそう言った。
本当は、あいつがどれほど必死だったか、
同じ男として嫌というほど分かってしまう。
そして、その必死さに海緒の心が揺れていることに、俺は猛烈な焦燥感を覚えていた。
海緒のそばに歩み寄り、彼女の冷え切った手に、
自分の手を重ねる。
俺の、震えるような独占欲に気づかないでくれと、心の中で願いながら。
