『……あ、あの、佐原先輩……そろそろ……』
腕の中で、戸惑ったような海緒ちゃんの声がする。
わかってる。離さなきゃいけないことくらい。
でも、一度触れてしまった体温を手放すのが怖くて、俺はさらに腕に力を込めてしまった。
「ごめん……いまは、離したくない……っ……」
情けない。自分でも驚くほど、声が震えて、掠れている。
恐怖で震えてもおかしくないのは、いきなり抱きしめられた彼女の方なのに。
今の俺は、彼女に拒絶されることを何よりも恐れている、ただの臆病者だ。
『……なにか、つらいことでも、ありましたか……?』
どこまでも優しい、心配そうな声。その慈愛に満ちた言葉が、俺の卑怯な独占欲をさらに惨めにする。
謝りたいのか、奪いたいのか。
自分でも制御できない感情が溢れそうになった、その時。
「なにしてんだよ」
背後から、鼓膜を震わせるような、
ドスの効いた低い声が響き渡った。
振り返らなくてもわかる。
心臓を直接掴まれたような、この冷たい重圧。
『……っ! 翔、先輩……』
海緒ちゃんが小さく息を呑む。
さっきまで俺を包んでいた穏やかな夏の夜の空気は、一瞬にして凍りついた。
そこにあるのは、友情も遠慮もすべて削ぎ落とした、一人の男としての「怒り」だけ。
俺の腕の中にいる彼女を、その鋭い視線だけで引き剥がさんとする翔が、そこに立っていた。
【佐原side おわり】
