『……覚えてますよ。大事な佐原先輩の気持ちだと思ったので、今でもしっかりと』
てっきり、露骨に嫌な顔をされるか、
あるいは恐怖で固まってしまうと思っていた。
今の俺は、間違いなく彼女との「安全な距離」を踏み越えた。嫌われても、拒絶されても、文句は言えない。
けれど、彼女が浮かべたのは、どこか困ったような、けれど柔らかな微笑みだった。
それは以前のような、トラウマから自分を守るための引き攣った仮面じゃない。
一人の男として向けられた想いを、逃げずに受け止めようとする、真っ直ぐで誠実な笑顔だった。
(……ああ、もう。本当にズルいよ、君は)
そんな顔で笑われたら、諦めるどころか、
もっと欲張ってしまいそうになる。
わずかな「期待」という毒が、俺の思考をじわじわと侵食していく。
「……あれ、言ったでしょ。結構、本気なんだ」
喉の奥がカラカラに乾いて、声が少し掠れる。
『……はい』
「……翔が一番なのは、分かってる。無理を言ってる自覚もあるよ。でも……」
両手に提げた袋の重みに耐えながら、
俺は彼女の瞳をじっと見つめた。
今だけは、お調子者の佐原じゃない。
リハビリ相手でもない。
「少しだけ……ほんの少しだけでいいから。俺のことも、海緒ちゃんの視野に、入れてくれないかな」
蝉の声が、一瞬だけ遠のいた気がした。
ジリジリと肌を焼く太陽の下で、俺は初めて、自分の「本当の居場所」を求めて賭けに出たんだ。
