5月の雪が止む頃に、君が本当の笑顔を取り戻せるように。



『一回だけで、終わってれば……良いってことはないけど。ここまで過呼吸になりやすくなることも、手を力いっぱい握りしめる癖も、……笑って嘘をつくことも、なかったんだろうなって』


一回だけ、じゃなかった。
その言葉の意味を理解した瞬間、目の前が真っ暗になった。


「そんな……」


隣で佐原が、絞り出すような絶望の声を漏らした。
あいつも、俺と同じ光景を想像して絶句している。

海緒は、何度も、何度も、その教師という皮を被った化物に踏みにじられ続けてきたんだ。

あんなに健気に笑っていた彼女の笑顔は、そうしなければ壊れてしまう心を繋ぎ止めるための、必死な「嘘」だったんだ。


『何回か、そういうことをされていくうちに……とうとう、家族にも拒絶反応が出るようになっちゃって。お父さんと、おじいちゃんを見るだけでも、過呼吸になるようになって……』


淡々と語る海緒の声が、逆に痛々しくて聞いていられない。

一番の味方であるはずの家族。
守ってくれるはずの存在。

その「男性」という属性すべてが、
彼女にとっての恐怖の対象に書き換えられてしまった。

家ですら、彼女の安らげる場所じゃなかったんだ。
自分の部屋でさえ、息を殺して震えていたのかもしれない。


そう思うと、これまで彼女が一人で耐えてきた時間の長さに、めまいがした。

俺は、込み上げる怒りと、情けなさで視界が滲んだ。


「……ごめん。海緒、ごめん……」


何に対しての謝罪なのか自分でも分からない。

ただ、こんなに近くにいたのに、彼女が抱えてきた底知れない暗闇に、今の今まで気づけなかった自分が許せなかった。


『……そんな、泣かないで……ください』


耳元で聞こえた、消え入りそうな声。
直後、ふわっと、優しい彼女の匂いに視界が包まれた。

熱い。……え? 何が、起きている?
状況を理解するのに、数秒の時間がかかった。

海緒が、ベッドから身を乗り出して、俺を……俺の首に腕を回して、抱きしめていたんだ。

男が怖いはずの彼女が。触れられるのも嫌なはずの彼女が。

俺の、情けない涙を見て、自分の恐怖を押し殺して抱きしめてくれた。
俺の胸に押し付けられた海緒の体は、小刻みに震えている。


けれど、その腕は、驚くほど強かった。


『翔先輩は……ううん、翔先輩と佐原先輩は、精一杯、助けてくれました。……前の学校の時とは、全然ちがいます。だから、そんな顔、しないで……』


背中に回された海緒の小さな手が、
俺の心をトントンと宥めるように叩く。

その温もりが、俺の張り詰めていた何かを、
完全に決壊させた。


「……海緒」


俺は、彼女を怖がらせないように、けれど二度と離さないという決意を込めて、彼女の背中にそっと手を回した。

守っているつもりだった。

けれど、本当の意味で守られていたのは、俺の方だったんだ。
彼女の小さな体の中に宿る、計り知れない強さと優しさに。