「そっか、男が怖いのか。ごめんね、あんな急に距離縮めちゃって」
事情を話すと、佐原はそれまでの浮かれた調子を一変させ、物凄く申し訳なさそうな顔をした。
『いえ……事前に伝えていなかった私も悪いので』
「俺、佐原 優大(さはらゆうだい)。ゆうちゃんとか、気軽に呼んでね!」
――おい。
さっき自分の距離感に反省してたんじゃないのか。
一秒前まで神妙な顔をしておいて、即座にこれだ。
こいつの辞書には「学習」という二文字が存在しないらしい。
『そんな、いきなり先輩をあだ名でなんて呼べないです……っ』
「お願いだから、海緒を困らせないでくれ……」
あまりの陽気さと切り替えの早さに、俺は思わずこめかみを押さえた。
さっき、こいつの空気の読めなさに感謝した俺が間違いだった。今の感謝をすべて、音速でキャンセルしたい。
「いいじゃん翔! ニックネームは友情の証だよ?」
「そういう次元の話じゃねーんだよ」
海緒を守るための壁になりたい俺の横で、
佐原は軽やかにその壁を飛び越えていく。
ため息しか出ない俺の横で、海緒が少しだけ、
困ったように、でも先ほどよりはリラックスした様子で口角を上げたのを、俺は見逃さなかった。
「まあ……こんな奴だけど、一応俺の友達で、何かあったら助けてくれると思うから。俺の時みたいに、少しずつ仲良くなっていけるといいな」
『永瀬先輩のお友達さんなら……頑張ってみようと思います』
――……っ。
今、なんて言った?
「永瀬先輩」
初めてだ。
彼女の口から、俺の名前が、俺という個人の名前が零れたのは。
ただ「先輩」と呼ばれるのも悪くなかった。
でも、俺の苗字をのせて呼ばれるだけで、
まるで彼女の世界の中に俺という存在が正式に登録されたような、そんな猛烈な優越感に襲われる。
「……あ、ああ。そうか。……おう、頑張れ」
危ない。
さっきよりも何倍も、口角がだらしなく跳ね上がりそうになる。
佐原がいなかったら、今すぐその場でガッツポーズをしていたかもしれない。
胸の奥が、熱い。
彼女のなかで、俺はただの「先輩」から「永瀬先輩」に変わった。
その小さな、けれど確実な一歩が、今は何よりも誇らしかった。
