幻獣と旅する没落令嬢は、秘密を隠す騎士に恋をする

森の中は、風の音と、葉の擦れるやわらかな気配だけが満ちていた。

街道から少し外れたこの道は、人の気配がほとんどない。
その代わりに、小さな命たちの声が、あちこちで弾んでいる。

枝の上から、軽やかな声が降ってきた。

「さっきなんか血の匂いしてたね」
「ねー」
「びっくりした!」

ヴィオラは足を止めて、見上げる。
数匹のリスたちが、落ち着きなく動き回りながら、口々に話す。

「こんにちは。なにかあったの?」

声をかけると、リスたちは顔を見合わせて、また楽しそうに話し出す。

「なんかね、人が倒れてたの」
「動かなかった!」
「大きい木の向こうだよ」
「あの辺、あの辺!」

それぞれが好き勝手に方向を示す。
指し示す先は、微妙にばらばらだ。

「ありがとう」

軽く微笑んで礼を言うと、リスたちは満足げに走り去っていった。
ヴィオラは少しだけ視線を巡らせてから、隣へと向き直る。

「——ねえ、ヴァイス。あっちで誰か倒れてるみたい」

白い幻獣は、ちらりとこちらを見ただけだった。

——“それで?”

興味なさそうな声が、頭の奥に響く。

「それでって……放っておけないでしょ」

そう言うと、ヴァイスはわずかに息をついた気配を寄越す。

——“お前はそう言うと思った”

一拍の間。

——“だが、情報が曖昧だな。方向が定まっていない”

「うん……リスたちは“大きい木の向こう”って言ってたけれど、多すぎるわね」

森を見渡せば、似たような大木はいくつもある。
ヴァイスがゆっくりと視線を巡らせ——

——“……こちらだ”

静かに、ひとつの方向へ歩き出した。
迷いのない足取りだった。

「分かるの?」

——“気配がある。血の匂いもな”

ヴィオラは小さく頷いて、その背を追いかける。



少し奥へ入ったところだった。
倒れていたのは、一人の男。
血の匂いが、かすかにする。

ヴァイスの足が止まる。
その金色の瞳が、男を静かに射抜いた。

——“……まだ生きているな”

「大丈夫そう?」

——“死んではいない。だが厄介そうだ”

まるで価値を測るような声音。
ヴィオラはゆっくりと近づいて、しゃがみ込む。

「……ねえ、聞こえる?」

反応はない。
けれど呼吸はある。
傷も——浅くはない。

「このままは駄目ね。きれいにしないと」

そう言うと、ヴァイスがわずかに視線を動かす。

——“助けるのか”

「もちろんよ」

迷いはない。
少しの沈黙のあと。

——“……はあ……全く……”

どこか呆れたような声。

その時だった。

男の指が、わずかに動く。
そしてゆっくりと、瞼が開いた。
かすれた視線が、ヴィオラと——その隣のヴァイスを捉える。
一瞬だけ、鋭い警戒。
空気が張りつめる。

「……ここは……どこだ」

低く、掠れた声。
ヴィオラは持っていた水を少し掲げて見せる。

「ここは街から少し離れた森の中よ。
貴方怪我をしているでしょう。
丁度さっき川で水を汲んできたところだったの。手当させてちょうだい。」

男は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
そして——

「……世話になる」

短く、そう言って視線を落とす。
ヴァイスが、静かに一歩前に出る。

——“こいつ、ただの人間ではないな”

森の奥で、風がざわりと鳴る。
同時に、ヴァイスの気配が変わった。

——“……人が来る。三人。こちらを探している動きだ”

一瞬で、場の空気が張り詰める。
草を踏み分ける音。
三人の男が、姿を現した。
その動きに迷いはない。
明らかに、ここを目指してきている。

「……追ってきたか」

男——カイルが、低く呟く。
体を起こそうとするが、傷がそれを許さない。

「無理しないで」

ヴィオラが声をかける。

「ここにいれば——巻き込む」

言い切る前に、体が揺れた。
その瞬間。
白い影が、一歩前に出る。
ヴァイスだった。

——“動くな”

静かな声。

——“お前は、今は足手まといだ”

カイルの動きが止まる。
わずかに睨むが、否定はしない。

ヴァイスはそのまま前へ進み——
その体が、ゆっくりと大きくなる。
白い毛並みが広がり、存在が膨れ上がる。

数秒後。

そこにいたのは、三メートルほどの巨体だった。
黄金の瞳が、まっすぐ敵を射抜く。

「……なんだ、あれ」

「幻獣か——?」

一瞬の動揺。
それで十分だった。

——“そこで待っていろ、ヴィオラ”

次の瞬間、ヴァイスが地を蹴る。
風を置き去りにする速度で、間合いを詰める。

一人目が吹き飛び、
二人目が弾かれ、
三人目が怯む。

勝負は、一瞬だった。
静寂が戻る。

ヴァイスは振り返り、ゆっくりと元の大きさへ戻りながら歩いてくる。
そして何事もなかったかのように——

——“ただいま”

頭の奥に、穏やかな声が響いた。

「おかえりなさい」

カイルは、その光景を黙って見ていた。
わずかに目を細める。

「……大した相棒だな」

ぽつりと呟く。
その視線が、ヴィオラへと向けられる。
先ほどまでとは違う。
少しだけ、何かを測るような目だった。
カイルの言葉に、ヴィオラは少しだけ嬉しそうに笑った。

「そうなの。ヴァイスはすごいのよ!」

その声には、隠しきれない誇らしさが滲んでいる。
隣でヴァイスが、わずかに耳を動かした。
白い尾が、ゆるく一度揺れる。

カイルはその様子を静かに見てから、ぽつりと口にする。

「ヴァイスと言うのか」

「そう。この子はヴァイス」

ヴィオラはそっとその白い毛並みに触れる。
ふわりと指先が沈む。
そして顔を上げた。

「私はヴィオラよ」

名乗る声は穏やかで、何の気負いもない。

——その瞬間。

カイルの表情が、わずかに変わった。

「……ヴィオラ?」

低く、確かめるような声。
視線が、じっと彼女を捉える。

その名に、覚えがある。
消えたはずの名
——消されたはずの存在。

「君は……」

言いかけて、止まる。
ほんの一瞬、迷い。
そして小さく首を振った。

「……いや、そんなはずはない」

ヴィオラはきょとんとしたまま、首を傾げる。

「どうかした?」

あまりにも自然な問い。
カイルは一瞬だけ視線を逸らし、短く息を吐いた。

「……気にするな」

それ以上は言わない。
だがその目は、先ほどよりもわずかに鋭くなっていた。
ほんのわずかな沈黙のあと

「……カイルだ」

短く、それだけ名乗る。

「カイルさんね」

森の奥で、風が揺れる。

倒れた追っ手たち。
ここに長く留まるべきではないのは明らかだった。

ヴァイスが一歩前に出る。

——“ヴィオラ。行くぞ”

静かな声。
戦いの前に向けていた鋭さとは違う、いつもの落ち着いた響き。
続けて、低く落ちる声。

——“……こいつ、敵意はないようだが……どうする。置いていくか”

淡々とした確認。
ヴィオラはすぐに首を振った。

「一緒に行くに決まっているでしょう」

迷いはなかった。
カイルが、わずかに眉を動かす。
誰に向けた言葉なのか、一瞬判断しかねたような表情。
だがヴィオラは気にせず、そのまま彼へ向き直る。

「カイルさん、場所を移動しましょう。歩ける?」

「ああ」

短く答える声。
そしてすぐに続ける。

「近くに水場か、隠れられる場所はあるか」

ヴィオラは少しだけ視線を巡らせた。
森の気配に、そっと意識を向ける。

「……少し待ってて」

そう言って、近くの茂みへ歩み寄る。
カイルがわずかに眉をひそめる。

その視線の先で——

赤い尾が、ひらりと揺れた。
一匹のキツネが、こちらを見ている。
口元には、小さな果実。
今まさに巣へ戻る途中、といった様子だった。
ヴィオラはしゃがみ込んで、目線を合わせる。

「こんにちは」

キツネは少しだけ警戒するように耳を動かした。

「……なに」

短い、そっけない声。

「近くに、隠れられる場所ってある?」

単刀直入な問い。
キツネはじっとヴィオラを見て——

「あるけど」

間を置いてから、続ける。

「なんで教えなきゃいけないの」

ヴィオラは少しだけ考えてから、荷物をごそごそと探る。
取り出したのは、小さな布に包まれた魚。

「これ、あげるわ」

差し出すと、キツネの目がわずかに変わった。

「……魚?」

興味はありそう。
けれど、すぐには飛びつかない。

「それで?」

「教えてくれたらね」

静かな交渉。
キツネは尾をゆらりと揺らす。

「……足りない」

きっぱり。
ヴィオラは少しだけ目を瞬かせてから、くすりと笑った。

「じゃあ、もう一つ」

もう一包み取り出す。
今度は少し大きい。
キツネはじっとそれを見て——

「……奥の岩場」

ぽつりと呟く。

「大きい穴がある。乾いてるし、誰も使ってない」

言い終えてから、ちらりと魚を見る。
ヴィオラは頷いた。

「ありがとう」

魚を差し出すと、キツネはすばやくそれを咥えた。

「……悪くない取引」

それだけ言って、尾を揺らしながら森の奥へ消えていく。
その一連のやり取りを、カイルは黙って見ていた。
そして、ぽつりと。

「……今、誰と話していた?」

ヴィオラは何でもないように振り返る。

「キツネよ」

あっさりとした返答。
カイルは一瞬、言葉を失う。
追及はせず、ただ短く息を吐いた。

「……そうか」

納得はしていないが、否定もせずそのまま歩き出す。

しばらく進んだところでヴィオラの足が、ふらりと揺れた。

「っ——」

小さく体勢を崩す。
その瞬間
腕を、掴まれた。
しっかりとした力で、倒れる前に引き寄せられる。

「気をつけろ」

低い声が、すぐ近くで落ちる。
気づけばカイルの腕の中にいた。
距離が近い。
思ったよりもずっと。
ヴィオラは一瞬だけ目を見開いて——

「……ありがとう」

少しだけ小さな声で言う。
カイルはすぐに手を離すが、その動きは乱暴ではない。

「足元が悪い」

それだけ言って、視線を逸らした。
そのすぐ後。

——“この辺りは木の根が飛び出ている”

頭の奥に、ヴァイスの落ち着いた声が響く。
ヴィオラは小さく頷いた。

「気を付けるわね。ヴァイスもありがとう」

自然な調子で返す。
カイルの足が、わずかに止まった。
今の言葉
明らかに“誰かと会話している”それだった。
だが——
聞こえない。
さっきは、確かに聞こえたはずなのに。

「……さっきは聞こえた」

低い声。
ヴィオラへ向けられる視線が、わずかに鋭くなる。

「その……ヴァイスの声が」

一拍置いて、続ける。

「今は聞こえないんだ。……どういうことだ」

ヴィオラは少しだけ考えるようにしてから、あっさりと答えた。

「さっきは私と手が触れていたからね」

まるで当たり前のことのように言う。

「ヴァイスの声は、私と触れていれば貴方にも聞こえるわ」

少しだけ首を傾げる。

「他の動物たちとはできないのだけれど」

カイルは黙る。
情報を整理するように、ほんのわずか視線を落として——

「……そういうものか」

完全に理解したわけではない。
けれど、今はそれ以上踏み込まない。

前方に、岩場が見えてくる。
その奥に、影。
キツネの言っていた洞穴だった。