裏社会のドンは私を人質にできない

 もしもアイツが、今すぐここに来てくれなければ――。
 あの雨の日から始まった恋を、無かったことにしてしまおう。
 苦しいだけの恋だったから。

 ――なのに、あんな形で再会するなんて、まるで運命みたいで腹立たしかった。

 だから、いつの間にかアイツの形に火傷している。
 きっと、忘れるのはアイツのほうが早いんだろうな。

 「来ねえな」

 私を攫った男は小奇麗な折り畳み椅子に腰かけてつぶやく。
 山奥の埃だらけの倉庫。
 湿った埃の味が、やたら苦い。

「チッ。役に立たない人質だ」

 男の足音が近づいて来る。
 静かな倉庫の中で、私の息の荒さだけがやたら際立って聞こえた。
 額にぴたりと冷たい銃口が押し当てられる。

 (でも、本当に来ないの……マリオ)

 六条 万里生(ろくじょう まりお)――裏社会の若きドン。
 子供と遊ぶ姿は無邪気なくせに、大人には容赦ない男。
 彼に再び出会わなければ、私は平凡なベビーシッターでいられたはずだった。

 雨音が、トタン屋根を激しく打つ。
 その音が昔のアイツを思い起こさせた。
 ――夕立に濡れた私の頭に、その大きなブレザーをかぶせ、そのまま頭を引き寄せたアイツと……初めて触れ合った、唇。

『風邪引くだろ……』

 それは強い熱を持っていた。
 なのに言葉は冷たくて。

『帰れよ』

 離さないくせに、マリオはそう言う。
 気づいたときにはすでに、心はアイツのものになっていた。
 あの日からだろうか。私はマリオから、逃れられなくなった。

 汗がじわりと滲む手を握りしめ、震えを堪える。

「カウントダウンのお時間だ」

 銃を握る男を見上げると、その眉山が引きつるようにわずかに上がる。
 鼓動が胸を叩いて苦しい。
 忘れるより先に、マリオの忘れられない女になったら、ちょっとは嫌がらせになるかな。

 カウントダウンに合わせて私の瞼も重くなっていく……。

 「マ、リオ……」

 やっぱり、こんな形で終わるなんて、嫌だ。

「……ゼロ」

 その音の終わりがやけに長く感じ、喉奥が熱くなった。

 そのとき、銃声が二発、響いた。
 男の頬を弾丸がかすめていく。
 容赦ない暴力。
 それはまさに、アイツの悪いクセと同じ。

 来るような気が、していた。

 でも来てほしくなかった。
 だって期待したら、またつらくなる。

 「バカな男……」

 来ないと思わせて、最後には現れる。
 突き放しても、触れるのをやめない。
 だから、私はずっと逃げられない――。