私の愛したカンチ 〜あなたとの短い3週間〜

カンチの部屋を出た翌日の夜「……ママ、だれかきたよ?」
​湯船で遊んでいた子供が、不思議そうに首を傾げる。

古びたアパートの薄い壁越しに、通路を通る誰かの足音が聞こえた。それは、少し重心の低い、でも確かな足取り。

​直後、静寂を切り裂くようにチャイムが鳴った。
​風呂場の外で、クソ旦那が面倒臭そうにドアを開ける気配がする。
「んだよ、こんな時間に……」
低く苛立った旦那の声。それに重なるようにして聞こえてきたのは、耳に馴染んだ、明るい声だった。

​「夜分にすみません。真奈美さん、いらっしゃいますか」
​心臓が、耳元で鳴っているのかと思うほど激しく脈打った。
カンチ。
どうして。どうやってここを。

​「……あ? 真奈美? 誰だお前。……ああ、あの時の男か」
​旦那の冷ややかな声が、カンチを挑発するように響く。

私は子供を抱き上げたまま、身動きが取れなかった。濡れた体は震え、心臓の音だけが浴室のタイルに反響している。

​彼は、行く宛がなくてここに戻ったことも、全部わかった上で来たのだろうか。
「スーパースター」を気取っていた彼が、生活の匂いが染み付いたこの場所まで、私を「真奈美さん」と本名で呼びに来た。

​「真奈美! 出てこい! お前の知り合いが来てるぞ!」
​旦那の怒鳴り声が響く。
私は震える手でタオルを掴み、子供をくるんだ。

鏡に映った自分の顔は、真っ赤な口紅を引く前の、何の色もない、ただの疲れた女の顔だった。

​「下で待ってるから」
​その短い言葉を残して階段を降りていく足音。

​カンチの声を聞いた瞬間、凍りついていた何かが、奥底から一気に溶け出していくのが分かった。

私は、吸い寄せられるように着替え、彼のもとへと駆け出した。

​街灯の下、カンチは立っていた。
「どうして来たの?」
私の問いに、彼は搾り出すような声で言った。
「……よく考えた。あの時、引き止めなくてごめん。一緒に帰ろう」

​その言葉だけで、十分だった。でも、今の私には彼を迎え入れる資格なんてない。
​「もう忘れて。……カンチの生活まで壊してしまうから、帰って」
​私はそれだけを告げて、逃げるようにアパートへ戻った。彼をこれ以上、この薄汚れた日常に引きずり込みたくなかった。