あなたをストーカーにしてごめんなさい

結局、麻衣子に泣きついたところで現実は動かなかった。
行く宛も、蓄えもない子連れの女が転がり込める場所なんて、この広い世界のどこにも用意されていなかった。

​私は、あんなに逃げ出したかったクソ旦那の家へと戻った。
離婚は成立した。けれど、それは「家族」から「同居人」になっただけで、借金という鎖に繋がれたまま、不機嫌な男の顔色をうかがう生活は何ひとつ変わらない。

​「何やってんだろ……」
​暗い台所で、一人で呟いた。
カンチの部屋で吸った、あの甘い煙草の匂いが、もう何年も前のことのように遠い。

私はもう、お母さんでも、オンナでもなく、ただの「返済マシーン」に成り下がってしまった。
​コツコツと昼の仕事で返したら何年かかるのだろう。
子供の将来、自分の尊厳、そんな綺麗な言葉はもう今の私には響かない。
心が、すりガラスのように白く濁っていくのを感じていた。

​「……風俗で働こう」
​鏡に映った自分は、もう「いらっしゃいませ」と明るく笑っていたあの頃の私じゃなかった。
でも、それでいい。
心が死んでしまえば、誰に抱かれても、何を言われても、もう傷つかなくて済む。

​カンチ。
あなたは今も、5時に起きて、ボサボサの髪を揺らしながら、誰かに「俺はスーパースターだ」なんて笑っていますか。


城南島で一緒に食べた、あの安っぽいコンビニのパンの味。
高級なレストランの食事よりも、どんな贅沢よりも、あの瞬間の乾いた風とパンの甘みこそが、私の人生で「生きていてよかった」と思える、大切な記憶の一つだった。

​その温かな記憶を、お守りのように心の奥底にそっと仕舞い込む。
ぐちゃぐちゃになった感情も、答えの出ない後悔も、今はすべてその場所へ置いていく。

​私は鏡の前に立ち、乱れた髪を整え、剥がれかけた虚飾を塗り直した。
感情を殺した「夜の顔」が、ゆっくりと出来上がっていく。

​重い扉を開け、私は再び、あの騒がしくも孤独なネオンの街へ戻る準備を始める。

今度は、自分を隠すためじゃない。
自分を捨てて、ただ生き延びるために。
​私は、真っ赤な口紅を引いた。