「あ、いいよ! 電車ですぐだし、一人で帰れるから」
「何言ってんの、こんな時間に女の子一人で帰すわけないでしょ。ほら、行こ?」
彼に促されるまま外に出ると、
夜風が少しだけひんやりと、
火照った頬を冷ますように吹いた。
(風が気持ちいい……)
その時、碧くんが「あ」と
何かに気づくように声を漏らした。
「……耳、どうしたの? 虫刺されにしては、なんか——」
まずい、と思った瞬間だった。
「お疲れ様、美桜」
振り向いた先——街灯の下、
一台の黒い高級車に寄りかかるようにして颯が立っていた。
その表情は驚くほど穏やかで、
映画のワンシーンから飛び出してきたような「王子様」の顔。
「……お兄ちゃん?」
ハザードランプが規則正しく点滅し、
アスファルトをオレンジ色に照らす。
「……楽しかった?」
「……なんでここに……」
「ちょうど大学の仕事が終わったから、迎えに来たんだ」
そう言って颯は、私にゆっくりと歩み寄った。
「……それより美桜、耳。髪が乱れて、朝の”虫刺され”が見えそうだよ」
彼は碧くんを無視して、私の首筋に手を回す。
そして、碧くんからは見えない角度で、
私の耳たぶを指先で強く、
あの印を「上書き」して隠すようにして
押しつぶした。
「……いたっ……」
「……痛かった? 悪い虫の毒が残らないように、よく揉んでおかないとね」
颯が王子様スマイルを見せる前で、
碧くんは怪訝な表情を浮かべて言った。
「佐伯先輩……美桜ちゃんはもう、子供じゃないですよ。そんな風にプライベートまで監視して——」
「上城くん。君、あれだけ言ってもまだ懲りてないんだね。……美桜の優しさに甘えて、こんな遅くまで拘束するとは」
「いや、俺が送るつもりでいたんで」
「お兄ちゃん、碧くんは——」
「美桜を送る?家まで?君にそんなことさせるわけないだろ。もうここからは俺が責任を持って家まで送るから結構だよ」
颯はそれだけ言うと、
私の手を取りエスコートするように
助手席のドアを開けた。
「……さ、帰ろう美桜。車の中にお前の好きなホットココアも用意してあるから」
迎えに来てくれた颯を
無下にあしらうわけにもいかず、
私は碧くんに申し訳なさを感じつつ
別れを告げると、車内に乗り込んだ。
足を踏み入れた瞬間、
濃密なシトラスの香りと快適な温度の冷房が私を包み込む。
すぐに車が走り出す。
バックミラーの中で、
呆然と立ち尽くす碧くんが小さくなっていった。
「……ごめんね、遅くなっちゃって」
「いいんだよ。お前が楽しそうなら、俺はそれで。……ただ」
颯が片手でハンドルを握りながら、
私の手の甲をなぞるようにそっと手を重ねた。
「……今日みたいに、お前が誰かに奪われるのを想像するのはもう疲れた。それに、お前がいない部屋は少し広すぎて……怖くなる」
颯の穏やかで、優しい声。
その弱音のような言葉に私は、
どこか少しだけ罪悪感を感じた。
「ごめん……」
信号が赤になり、車が止まる。
静まった車内で、
颯が前をまっすぐ見たまま言った。
「……明日からの夏休み。美桜は課題も多いし、外も暑い。だから、俺の部屋で一緒に勉強しよう。……お前のために、完璧なスケジュールを作っておいたから」
「えっ……」
「嫌か?」
「う、ううん……ありがとう」
颯は満足そうに目を細めると、
私の髪を優しく掬い上げ、
耳たぶに愛しむように触れた。
「……いい子だ」
彼が差し出してきたココアは、
火傷しそうなほど熱い。
それなのに。
私に触れる彼の指先だけが、
氷のようにひんやりと冷たかった。
信号が、青になる。
「……さぁ、最高の夏休みにしよう」
暗闇の中、
笑みを浮かべたその横顔だけが、
残酷なほど美しく、
月光に照らされながら輝いていた——。
***

