【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

《怜央視点》

そして、事故の日。

沙羅から連絡が来た。

雨の音がしていた記憶がある。

窓を叩く雨粒。薄暗い空。湿った空気。
スマートフォンの画面に表示された彼女の名前。

『婚約解消の件で、きちんと話したいの』

沙羅の声は、いつも通り整っていた。

『家同士に話をする前に、二人で整理したほうがいいと思うの。お互いのためにも』

俺は黙って聞いていた。

『内密に会いたいの』

その言葉が引っかかった。

内密に。

つまり、誰にも知らせずに。

『一人で来て。大事な話だから』

電話越しの沙羅は、あくまで穏やかだった。
譲歩するような声だった。
ようやく冷静に話す気になったのかもしれない。

そう考えた。

馬鹿な判断だった。
今なら分かる。
あの時点で、俺は警戒すべきだった。
彼女の言葉の裏を読むべきだった。

だが、俺は行った。

一人で。

御堂にも告げず、運転手も付けず、自分で車を出した。
内密に、と言われたからだ。
最後くらい、相手の望む形で話を終わらせるべきだと考えた。
どこまで愚かだったのかと、今なら笑いたくなる。

車のワイパーが、雨を左右に払っていた。
視界は悪かった。街灯の光が濡れた路面に伸び、赤や白の光が滲んでいた。高速に乗る前、胸の奥に妙なざわつきがあった。

行きたくない。

本能が、そう告げていた。

だが俺は、その感覚を無視した。
久遠の人間として。
婚約者として。
最後まで責任を果たすために。

自分の不安を、また正しさで押し潰した。

そして――事故が起きた。

記憶はそこで途切れている。

衝撃。
ライト。
雨音。
ハンドルを握る手の感覚。
金属が歪む嫌な音。

それから、暗闇。

俺は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。