《怜央視点》
限界が来たのは、事故の一週間前だった。
事故の三日前、俺は沙羅と二人で会った。
場所はホテルのラウンジだったと思う。
周囲には控えめな音楽が流れ、窓の外には夕方の街が広がっていた。
人目がある場所でなら、彼女も冷静に話を聞くだろうと考えた。
甘かった。
俺は、正面に座る沙羅に告げた。
「結納の予定を白紙に戻したい」
声は驚くほど落ち着いていた。
長く考えた末の言葉だったからだ。
「この結婚は、家同士にとって意味があるものだ。それは分かっている。だが、俺はこのまま進めるべきじゃないと思っている」
沙羅は、最初、笑った。
小さく、上品に。
冗談を聞いたような顔だった。
「疲れているのね」
そう言われて、俺は静かに首を振った。
「違う」
沙羅の笑みが、ほんの少し固まった。
「俺は君との結婚を、仕事として割り切っていた。家のため、グループのため、必要なことだと思っていた。だが、それでも続けられない」
言葉にした途端、自分の中で何かが決定的に変わった。
ああ、俺は本当に終わらせたいのだ。
その事実を、ようやく自分で認めた。
「俺は、俺自身の人生を誰かの所有物にするつもりはない」
沙羅は黙って俺を見ていた。
笑みはまだ残っていた。
けれど、目だけが違っていた。
温度がなかった。
「……所有物?」
低く、平坦な声だった。
俺はその目を見て、初めて思った。
怖い、と。
沙羅はゆっくりと首を傾げた。
「何を勘違いしているの?」
その声は穏やかだった。穏やかすぎて、異様だった。
「この婚約は、そんな簡単にやめられるものじゃないわ」
「分かっている。だから正式に――」
「許さない」
短い言葉だった。
だが、その一言で空気が変わった。
テーブルの上のグラスも、窓の外の光も、周囲の話し声も、一瞬で遠ざかった気がした。
沙羅は微笑んでいた。美しい笑みだった。
誰が見ても、品のある令嬢の微笑みに見えただろう。
けれど、その目は俺を見ていなかった。
俺という人間ではなく、自分の持ち物が勝手に意思を持ったことを咎める目だった。
「あなたは私のものよ」
その言葉が、今でも耳の奥に残っている。
俺はあのとき、返す言葉を失った。
怒りではない。
嫌悪でもない。
背筋を冷たいものが走った。
俺は沙羅を、初めて恐れた。
その後の会話は、断片的にしか覚えていない。
沙羅は笑っていた。話し合いましょう、と言った。感情的になっているだけだ、と言った。結納前で不安定になっているのだ、と俺の意思を勝手に別のものへすり替えた。
俺はその場を切り上げた。
これ以上二人で話しても意味がないと判断した。
正式な手続きを進める。
家にも、御堂にも、関係各所にも伝える。
そう決めていた。
限界が来たのは、事故の一週間前だった。
事故の三日前、俺は沙羅と二人で会った。
場所はホテルのラウンジだったと思う。
周囲には控えめな音楽が流れ、窓の外には夕方の街が広がっていた。
人目がある場所でなら、彼女も冷静に話を聞くだろうと考えた。
甘かった。
俺は、正面に座る沙羅に告げた。
「結納の予定を白紙に戻したい」
声は驚くほど落ち着いていた。
長く考えた末の言葉だったからだ。
「この結婚は、家同士にとって意味があるものだ。それは分かっている。だが、俺はこのまま進めるべきじゃないと思っている」
沙羅は、最初、笑った。
小さく、上品に。
冗談を聞いたような顔だった。
「疲れているのね」
そう言われて、俺は静かに首を振った。
「違う」
沙羅の笑みが、ほんの少し固まった。
「俺は君との結婚を、仕事として割り切っていた。家のため、グループのため、必要なことだと思っていた。だが、それでも続けられない」
言葉にした途端、自分の中で何かが決定的に変わった。
ああ、俺は本当に終わらせたいのだ。
その事実を、ようやく自分で認めた。
「俺は、俺自身の人生を誰かの所有物にするつもりはない」
沙羅は黙って俺を見ていた。
笑みはまだ残っていた。
けれど、目だけが違っていた。
温度がなかった。
「……所有物?」
低く、平坦な声だった。
俺はその目を見て、初めて思った。
怖い、と。
沙羅はゆっくりと首を傾げた。
「何を勘違いしているの?」
その声は穏やかだった。穏やかすぎて、異様だった。
「この婚約は、そんな簡単にやめられるものじゃないわ」
「分かっている。だから正式に――」
「許さない」
短い言葉だった。
だが、その一言で空気が変わった。
テーブルの上のグラスも、窓の外の光も、周囲の話し声も、一瞬で遠ざかった気がした。
沙羅は微笑んでいた。美しい笑みだった。
誰が見ても、品のある令嬢の微笑みに見えただろう。
けれど、その目は俺を見ていなかった。
俺という人間ではなく、自分の持ち物が勝手に意思を持ったことを咎める目だった。
「あなたは私のものよ」
その言葉が、今でも耳の奥に残っている。
俺はあのとき、返す言葉を失った。
怒りではない。
嫌悪でもない。
背筋を冷たいものが走った。
俺は沙羅を、初めて恐れた。
その後の会話は、断片的にしか覚えていない。
沙羅は笑っていた。話し合いましょう、と言った。感情的になっているだけだ、と言った。結納前で不安定になっているのだ、と俺の意思を勝手に別のものへすり替えた。
俺はその場を切り上げた。
これ以上二人で話しても意味がないと判断した。
正式な手続きを進める。
家にも、御堂にも、関係各所にも伝える。
そう決めていた。



