【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

《怜央視点》

扉が閉まったあと、部屋は急に広くなった。

御堂の足音が廊下の向こうへ消えていく。久遠家の夜は静かだ。静かすぎて、壁も、床も、天井さえも、こちらの呼吸を聞いているように思える。

俺は一人、書斎の椅子に腰を下ろしたまま動けずにいた。

――思い出した。

そう口にした瞬間から、記憶は止まらなかった。

欠けていた部分が戻ったというより、沈んでいたものが一気に引き上げられた感覚に近い。濁った水の底から、見ないふりをしていた事実が、濡れたまま目の前に並べられていく。

沙羅との婚約。

最初から、それは恋愛ではなかった。

久遠家のため。グループのため。今後の事業提携のため。互いの家にとって利益があるから結ばれる婚約。

俺はそれを理解していたし、受け入れてもいた。

好きか嫌いかなど、最初から問題ではなかった。自分の感情を棚に上げることには慣れていた。
久遠の人間として求められている役割を果たす。それが正しいと思っていた。

沙羅も、同じだと思っていた。

彼女は完璧だった。会食の場では品よく笑い、誰に対しても隙を見せず、婚約者として申し分ない振る舞いをした。周囲は口を揃えて言った。似合いの二人だ、と。

俺も、それでいいと思っていた。

結納の準備が本格的に進み始めるまでは。