【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

数日後の午後、私は御堂に連れられて都内のホテルへ向かった。

「高梨家との話し合いの場ですよね?」

「はい」

「私が行く必要あります?」

「あります。沙羅様が、あなたの同席を条件にしました」

胃がきゅっとなる。

「……帰りたい」

通されたのは小さな会議室だった。すでに沙羅と、そのお父様、弁護士らしい男性が座っている。沙羅は今日も綺麗だった。綺麗すぎて、近くの空気まで切れそうなくらいに。

「……こんにちは」

「まだ、妻ごっこ継続中?あなた、自分の立場が全然理解できていないのね」

私たちが入ると、沙羅の視線が私の薬指を一度だけかすめた。

「この場に連れてきてもらって正解だったわ。もう一度言ってあげる。あなたは、偽物。怜央の妻になるのは、私」

にっこり笑って言われても、全然傷つく。

御堂は私の一歩前に立ち、契約書類を沙羅の前に差し出した。

「本日は三点、ご確認をお願いしに参りました」

その声はいつも通り平坦だったけれど、部屋の空気が一瞬で変わった。

「第一に、婚約について。現時点で怜央様と高梨沙羅様の間に、正式な婚約契約は存在しません。家同士の打診と調整はありましたが、当事者間の合意が未了です」

沙羅の父親が眉をひそめる。

「合意も何も、両家で話は進んでいた」

「あくまで、合意前の準備段階でした」

さらっと言ってから、御堂は続けた。

「婚約と同義ではありません」

沙羅が小さく息を吐いた。

「相変わらずね、御堂さん。人の心を会議資料みたいに扱うの」

「心は不得手なので」

少しも怯まない。むしろ今日の御堂は、いつもより切れ味がいい。

「第二に」

彼はもう一枚、紙を差し出した。

「事故六日前の二十三時四十二分に保存された、怜央様のメール下書きです。宛先は沙羅様。内容は、縁談をこれ以上進める意思がないこと、話し合いの場を設けたいこと」

私は息を呑んだ。

沙羅の指先が、ほんの少しだけ強く組まれる。

沙羅の父親が低く言う。

「娘に恥をかかせるつもりか」

「逆です。これ以上恥を広げないために、事実を確認しています」

御堂は静かに返した。

「第三に。先日、記憶障害下の怜央様へ不意に接触し、医療的配慮のない形で契約内容を暴露した件について、久遠家は重く見ています」

沙羅の目が鋭くなる。

「契約妻を置いていたあなたたちが、それを言うの?」

御堂の表情は崩れない。

「不適切なことだったと思います。ですが、その不適切さを利用して病状を揺らしたことは、別問題です」

部屋が静まり返る。

私はそこで初めて、御堂が今日この場をどう着地させるつもりなのか、少しだけ見えた気がした。

「本日、久遠家としては、この縁談を正式に白紙へ戻したい」

沙羅が口を開きかけたが、御堂は先に言った。

「表向きは、事故後の療養と医療専念を理由とした交流見直し、で構いません。双方の名誉を傷つける公表は不要です」

「ずいぶん都合がいいのね」

沙羅が笑う。その笑みは先日の会食のときみたいに鋭かったけれど、今日は少しだけ疲れて見えた。

「あなた、恋愛経験ないでしょ!わたくしの気持ちは、その『見直し』の一言で片づくと思うの?」

御堂はほんのわずかに間を置いた。

「片づかないと思います」

その返事は意外だったのか、沙羅が目を瞬く。

「しかし、怜央様にこれ以上、あなたを近づけたくない」

その一言で、沙羅の笑みが、ふっと消えた。

御堂がノートPCの画面を一瞬だけ見せた。
メールのスクリーンショット。件名。短い文面。――それは、沙羅が怜央の車に細工をするよう指示する内容だった。

沙羅の頬が、ほんのわずか引きつる。

「……そんなもの、偽造でしょう」

「偽造の可能性も含め、調査を継続します。ただし――当家としては、事実を公表する意思はありません。ここで終わらせるなら、ですが」

沈黙が落ちる。

沙羅は数秒、動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いて、紙にペンを置いた。

「……いいわ。円満に解消しましょう」

その言葉は、優雅だった。
でも、瞳の奥は、優雅じゃない。

サインを終えた沙羅は立ち上がり、私の方を見る。

「あなた、覚えておいて」

私は背筋を伸ばした。怖いのに、目は逸らせない。

沙羅は微笑んだまま言う。

「たまたま妻役を任された程度で、思い上がらないことですわ」

去り際に香水の匂いが残った。
甘くて、どこか苦い匂いだった。