【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

《怜央視点》

「そこまでして遠ざける価値がありますか」

静かな声に顔を上げると、いつの間に入ってきたのか、御堂が扉のそばに立っていた。
ノックくらいしろ、と言おうとしてやめる。こいつに今さらそんな期待はしていない。

「聞こえていたか」

「全部ではありません。ですが、十分すぎるくらいには」

御堂は相変わらず無表情のまま、タブレットを差し出した。

「現場検証の一次報告です。ブレーキ系統に不自然な圧抜け。整備不良で片づけるには無理があります。加えて、ドライブレコーダーは事故の十五分前からデータが欠落していました」

「故障?」

「その可能性は低いかと。消され方が綺麗すぎる」

喉の奥が冷える。

やはり、か。

御堂はタブレットを下ろし、今度は封筒を机に置いた。

「就職先候補です。編集プロダクション、医療系媒体、契約編集。桐生さんの経歴なら現実的かと」

「本人に渡してくれ」

「直接ではなく?」

そう言って、御堂は数秒だけ黙った。
そして、まるで明日の天気を告げるみたいな平坦さで言う。

「恋愛経験のない私でも、それは未練だとわかります」

思わず眉を寄せる。

「お前は最近、どこでそんな語彙を仕入れてる」

「読書です。参考文献は複数あります」

「ろくな本じゃないな」

「ええ。たいへん拗れやすいジャンルでした」

こいつの真顔は、ときどき腹立たしいほど切れ味がいい。

「未練じゃない」

「では何です」

「必要な処置だ」

「人間関係を医療用語にしないでください。なお、恋愛小説の統計上、『好きだから離す』は九割方さらに拗れます」

「お前の統計は信用しない」

「残念です。かなりの冊数を読んだのですが」

その一言だけで、少しだけ口元が動きそうになった。
だが、すぐに消える。

御堂も冗談だけでは終わらせなかった。

「本音を言えばいいのでは。契約がどうであれ、あなたが惹かれていることは事実でしょう」

「だから言えない」

はっきり返すと、御堂の眼鏡の奥の目がわずかに細くなった。

「借金を片づけてもらった恩で、彼女は残る。俺に同情しても残る。責任感でも残る。だが、それは違うだろ」

「違う、とは」

「俺が欲しいのは、そんな残り方じゃない」

そこまで言って、自分で苦くなる。
欲しい、と認めたところで、もう手遅れだ。

御堂はしばらく黙っていた。
やがて低く息を吐き、口調だけをいつもの調子へ戻す。

「恋愛経験のない私でも、今のはかなり重症だと診断できます」

「うるさい」

「褒め言葉として受け取っておきます」