【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

《怜央視点》

「来ていただいてありがとうございます、桐生さん」

そう言った瞬間、自分の声が思っていた以上に冷たく響いて、胸の奥がわずかに軋んだ。

彼女は、ほんの一瞬だけ息を止めた。怯えたわけではない。ただ、覚悟していた痛みを実際に受けた顔だった。

本当は、梨音、と呼びたかった。

それでも、呼べなかった。

あのまま優しくすれば、彼女は残る。
借金を整理しても、契約が終わっても、責任感で、情で、たぶん俺を見捨てない。

そういう人間だと、もう知っている。

だからこそ、駄目だった。

好きだと言えば、彼女は困る。
いてほしいと言えば、彼女は無理をする。
俺の気持ちで縛るのだけは、したくなかった。

それに、思い出した事故の感触が最悪だった。

ブレーキを踏んだ瞬間の、異様な軽さ。
交差点へ流れ込む車体。
誰にも告げずに外へ出たはずの、その行き先を知っていたみたいなタイミング。

ただの事故じゃない。

その確信がある以上、俺のそばに置かないほうがいい。

だから、冷たくする。

嫌われるくらいでちょうどいい。
二度とあの声で名前を呼ばれなくなるとしても、そのほうがましだと自分に言い聞かせた。

「……その呼び方は、やめてください」

彼女が俺の名を呼んだとき、反射みたいにそう返したのも、同じ理由だ。
距離を測り損ねる前に、線を引くためだった。

彼女の目が揺れた。
それでも泣かなかったのが、余計につらい。

「これ以上、あなたを拘束する理由はありません」

口にした瞬間、自分で吐き気がした。
できることなら、離したくない。

彼女が水を取ろうとしたとき、先に自分で手を伸ばした。
触れたら終わる、と思った。
一度でもあの手に縋れば、もう冷たくなどできない。

「ほかに何か?」

面会時間を切る医者みたいな声で尋ねたのは、自分がそれ以上もたないとわかっていたからだ。

彼女が「ありません」と答えて病室を出ていったあと、気づけばシーツを握り潰していた。
白い布に深い皺が刻まれている。
それが、自分の本音の形みたいで嫌になった。