【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

ノックをして中へ入る。

ベッドを起こした怜央は、手元の書類から顔を上げた。
視線が合う。

その瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。

やわらかさがない。
私を見る目なのに、あの日の取材で初めて会った久遠怜央の目だった。

「来ていただいてありがとうございます、桐生さん」

桐生さん。

名前を呼ばれたのに、名前じゃなかった。
その呼び方だけで、昨日までの時間が全部遠くなる。

「……目、覚めたんですね」

「ええ。ご迷惑をおかけしました」

ご迷惑。
その言い方が、ひどく丁寧で、ひどく遠い。

私はベッドのそばまで行きかけて、足を止めた。
前なら、怜央は迷わず手を伸ばしてきたはずだ。
でも今の彼は、毛布の上に置いた自分の手を動かさない。

「怜央さん」

呼んだ途端、怜央の睫毛がわずかに揺れた。

ほんの一瞬だけ何かが差した気がしたのに、次の瞬間には消える。

「……その呼び方は、やめてください」

低く、静かな声だった。

胸の奥を、細い針でまっすぐ刺されたみたいだった。

「記憶、戻ったんですね」

「概ね。事故の前後はまだですが」

私が妻じゃなかったこと。
婚約者がいたこと。
全部思い出してしまったんだ。

「私、あのとき……最後まで言えなくて」

「説明は不要です」

きっぱりと遮られた。

「責めるつもりはありません。あなたには救助していただいた。その後も、混乱した私のために協力してくださった。感謝しています」

感謝。
協力。
まるで業務報告みたいな言葉ばかりが並ぶ。

「報酬も借入整理も、約束どおり進めます。契約終了に関する手続きは御堂が。今後の連絡も、彼を通してください」

「契約終了……」

口の中でその言葉を繰り返したら、ひどく苦かった。

「ええ。これ以上、あなたを拘束する理由はありません」

私は思わず一歩近づいた。

「拘束なんて、私は——」

そこで怜央がわずかに身じろぎした。
逃げたわけじゃない。
けれど、距離を詰められたとき、人が自然に取る防御の動きだった。

それだけで十分だった。

ああ、この人はもう、私に触れたくないんだ。

「……顔色が悪いです。水、取りますね」

とっさにテーブルのペットボトルへ手を伸ばしかける。
けれど怜央は、先に自分でそれを取った。

「お気遣いなく。自分でできます」

やさしくもない。
冷たく言い捨てたわけでもない。
ただ礼儀正しく、線を引かれた。

そのほうが、ずっと痛かった。

怒ってくれたほうがまだ楽だ。
冷たく言い切られたほうが、まだ諦めがつく。
こんなふうに丁寧に距離を置かれると、昨日までのやさしさが夢だったみたいになる。

「ほかに何か?」

怜央が問う。
面会時間を確認する医者みたいな声音だった。

私は唇を噛んだ。

本当は、山ほどあった。
ごめんなさい、違うんです、私はもう——。
でも、そのどれを口にしても、今の怜央には届かない気がした。

「……ありません」

「そうですか」

その返事だけで、面会は終わった。