【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

私はうまく息ができなくなった。

言わなきゃいけない。
でも、何を。
ここで「違います」と全部否定するのは簡単だ。怜央を守るための嘘を、最後まで貫くこともできるかもしれない。
なのに、その嘘はたぶん今この瞬間だけ彼を守って、あとで何倍も深く傷つける。

それがわかってしまう。

「梨音」

もう一度、名前を呼ばれる。

怜央は私を見つめたまま、ゆっくりと言った。

「嘘なのか」

その一言で、胸の奥がぐしゃりと潰れた。

怒りじゃなかった。
責める響きでもなかった。
ただ、ひどく傷ついた声だった。

私は唇を開く。
けれど、すぐには何も出ない。

ごめんなさい。
違います。
最初はお金のためでした。
でも、今は違うんです。

言いたいことが多すぎて、どれも喉を通らない。

「……梨音」

怜央の声が、わずかに震える。
その震えが決定打だった。

私は逃げられなくなった。

「……最初は」

やっと絞り出した声が、自分のものじゃないみたいに遠い。

「最初は、契約でした」

その瞬間、誰かが息を呑んだ。

たぶん夫人だった。
あるいは私自身だったのかもしれない。

違う。
違うんだよ。
いま言いたかったのは、その先だったのに。

「でも——」

その続きを言おうとした瞬間、怜央の表情が変わった。

目の焦点が揺れる。
こめかみのあたりに、びきりと青い筋が浮いた。

「怜央さん?」

私が一歩踏み出す。
けれど怜央は、私を見ているようで、もうどこも見ていなかった。