【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

怜央の指が、私の手を離した。

さっきまでたしかにあった体温が、急に消える。
たったそれだけで、胸の奥がぞっとするくらい寒くなった。

「……父さん。どういうことだ」

会長はすぐには答えなかった。
夫人も、苦しそうに視線を伏せる。

その沈黙だけで、十分すぎた。

怜央の目が夫人へ移る。
夫人は唇を噛み、私を見て、また怜央を見る。

そのどちらも否定にならない。

「……本当、なのか」

誰に向けた問いなのか、一瞬わからなかった。

沙羅が静かに言う。

「私、あなたに忘れられているのは仕方ないと思っています。不幸な事故にあったんですもの。でも、婚約そのものまでなかったことにされるのは、さすがにつらいの」

その言葉に、怜央が目を見開く。

「待て……待ってくれ……俺は」

息が荒くなる。

「妻……婚約者……事故……」

言葉が途切れ、視線が彷徨う。

怜央の喉が鳴った。

「……俺は、誰と……」

沙羅が囁くように言う。

「私です。怜央さん。あなたは私のもの――婚約者です」

「……違う」

怜央の口から、かすれた否定が漏れる。
それが沙羅を一瞬だけ苛立たせ、すぐに甘い笑みに戻る。

「違う?では、なぜ皆さんは、梨音さんが妻だと強く言わないのかしら?」

「……う、っ」

怜央の顔色が変わる。
一瞬で、青白くなる。

「怜央さん!」

「……梨音」

その呼び方が、いつもと違う。
甘さがないわけじゃない。けれど、信じたいのに信じきれない人の声だった。