【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

「誤解しないでくださいね、梨音さん」

沙羅が、私へ向けてやわらかく言う。

「私はあなたを侮辱しているわけではないの。必要な役目を引き受けてくださったことには感謝しています。むしろ、突然こんな家に入れられて、お辛かったでしょう」

優しい。
優しいふりをしたまま、人を逃げ場のない場所へ追い込む声だった。

「でも」

沙羅は首をほんの少し傾ける。

「契約でしょう?期間限定の妻役。お金で買われた、偽物。でも、怜央様の記憶が戻ったら、あなたって不要よね?役割は、役割のままで区切らなくてはいけないわ。報酬を受け取って引き受けた契約なら、なおさら」

その瞬間、扉の向こうから小さなどよめきが起きた。
広間の中の親族たちにまで聞こえたのだ。

最悪だ。

頭のどこかが冷静にそう思う。
今この場でいちばん残酷なのは、事実そのものより、その事実が見世物みたいに広がっていくことだ。

「沙羅さん!」

会長の声が飛ぶ。
夫人も顔を青くしていた。

けれど沙羅はまったく取り乱さない。

「ただ、事実をお伝えしているだけです」

「ここで言う必要はない」

「いいえ」

彼女は、やわらかく首を振った。

「隠し続けるほうが、よほど残酷です。ねえ、怜央さん?」

その理屈は、たぶん正しい。
正しいからこそ、余計につらい。