【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

事情聴取も兼ねて、私は救急車に同乗することになった。

車内は白い光と薬品の匂いに満ちている。隊員たちの声は簡潔で、無駄がない。血圧、脈拍、意識レベル。聞き慣れない言葉のはずなのに、昔の医療取材の記憶が断片的によみがえる。

彼は酸素マスクをつけられ、目を閉じていた。さっきまでの鋭い視線が消えると、とたんに顔立ちの整い方が目につく。濡れた睫毛、通った鼻筋、薄い唇。嫌になるくらい、絵になる顔だ。

だからこそ、急に、胸の奥で何かが引っかかった。

見たことがある。

どこで?

私は彼の顔をまじまじと見つめた。血を拭われ、髪を上げられた額の輪郭。閉じたまぶたの線。無愛想そうな口元。

隊員の一人が財布から身分証を取り出し、読み上げる。

「身元確認。患者、久遠怜央、三十二歳」

その名前が落ちてきた瞬間、心臓が止まりかけた。

久遠、怜央。

白い病院。
徹夜明けの術衣。
「奇跡ではありません」と言い切った冷たい声。

「え……」

思わず声が漏れた。

――あのとき、医者としては尊敬できるが、性格は冷たい、と私が勝手に結論づけた男。

隊員がこちらを見たが、私はうまく何も言えなかった。雨の夜の事故車の中で、私の手をつかんで「離れるな」と言った男が、あの久遠怜央だなんて。