【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

その名が落ちた瞬間、扉の向こうの空気がひやりと変わった。

少し遅れて、よく通る女性の声がした。

「勝手に来てしまって、ごめんなさい。でも……無関係な顔なんてしていられませんもの」

開いた扉の向こうに立っていた女性は、ひどく綺麗だった。

白に近いグレージュのドレス。過剰ではない真珠の耳飾り。長い髪は艶やかにひとつにまとめられていて、化粧も薄いのに隙がない。美人、という一言で済ませるには整いすぎているのに、近寄りやすさはまるでない。

なにより、笑っているのに温度がない。

唇の形はやわらかいのに、その笑みの縁だけが刃みたいに鋭かった。うっかり触れたら切れる。そんなふうに直感する笑顔だった。

その瞬間、私は自分のドレスの裾を無意識に握りしめた。
夫人が選んでくれた濃紺のドレスも、左手の指輪も、磨かれた床も、ぜんぶ借り物みたいに思えたからだ。

この人はたぶん、私みたいに背伸びしてここに立っているんじゃない。
この世界の空気を、生まれたときから当たり前みたいに吸ってきた人だ。

「沙羅さん……」

夫人が小さく息を呑む。

会長の表情は一気に硬くなった。

「誰が通した」

「私です」

沙羅は悪びれもせず、むしろ上品なくらいに綺麗に頭を下げた。

「門で御堂さんに止められましたけれど、今日は親族の会食でしょう?怜央さんが無事に戻られたのに、私だけ参加できないのも不自然ですから」

「君には、後日あらためて説明するつもりだった」

会長の低い声にも、沙羅の笑みは崩れない。

「そういうお気遣いは、不要ですわ」

その一言が、静かに空気を裂いた。

広間の中で、さっきまでしていた低い話し声がぴたりと止んだ。中にいた親族たちは、こちらの異変に気づいて、半開きの扉の隙間から、こちらを覗いていた。

私は無意識に息を詰めた。
隣にいた怜央は、強く私の手を握る。

「……誰だ」

低い声だった。
医者の顔でも、家で私に向けるやわらかい顔でもない。警戒だけを含んだ、硬い声。

沙羅はその声を正面から受けて、それでも微笑んだまま怜央を見た。

「やはり、覚えていらっしゃらないのね」