【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

翌日の夕方。
用意されたドレスに袖を通した私は、鏡の前で完全に挙動不審になっていた。

濃紺の生地はしっとり落ちて、首元は上品なくらいにしか開いていない。
装飾も控えめなのに、私の普段着との価格差が怖すぎて、布というより責任を着ている気分だ。
髪も夫人付きの美容スタッフさんに綺麗にまとめられてしまい、鏡の向こうにいるのが自分に見えない。

「逃げたい……」

本音が漏れたところで、控えめなノックがした。

「梨音、入る」

返事を待たずにドアが開く。
現れた怜央は、黒のスーツ姿だった。病院で白衣を着ているときとも、部屋着で眠そうに立っているときとも違う。
無駄のない黒が似合いすぎて、心臓に悪い。

そして、もっと悪いことに、ネクタイがまだ結ばれていなかった。

「選んで」

「……はい?」

「どれがいい」

差し出されたのは、二本のネクタイ。
濃いグレーと、深い紺。
私はそれを見比べて、どうにか平静を装った。

「紺、ですかね。私の服とも合うので」

「じゃあ、それで」

怜央は当然みたいにネクタイを私へ渡した。

「結んで」

「えっ、私が?」

「妻なら当然だろ」

またその理屈だ。
でも、ここで「無理です」と言えるほど、久遠家との契約は甘くない。
私は覚悟を決めて一歩近づいた。

近い。
わかっていたけれど、近い。

怜央の胸元に手を伸ばすと、淡い石鹸みたいな清潔な匂いがした。
指先が襟元に触れるたび、自分の鼓動のほうがうるさい。
ネクタイを回して、結び目を作って、形を整える。たったそれだけなのに、どうしてこんなに手が震えるんだろう。

「……そんなに緊張する?」

低く落ちた声に、私は正直に頷いた。

「しますよ。だって、これから久遠家全員集合ですよ?私が入っていい場所じゃない気がして」

言った瞬間、指先が止まってしまった。
次の瞬間、怜央の大きな手が、私の手の上にそっと重なる。

「梨音」

顔を上げると、怜央は少しだけ眉を下げていた。

「君が来るのは、俺が隣にいてほしいからだ」

息が詰まる。

「それに、今日は一人にしない。困ったら俺を見て。嫌になったら、すぐ合図して」

「合図って」

「袖を引くでも、手を握るでも」

さらっと言う。
さらっと言わないでほしい。

でも、その手はやさしかった。
冷たい名医だと思っていた人の手が、今は私の震えを落ち着かせるためにある。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。

「……わかりました」

どうにかそう答えて、もう一度ネクタイを整える。
結び目をきゅっと締めると、怜央がほんの少しだけ笑う。

「上手い」

怜央は完成した結び目に指先で軽く触れてから、今度は私の首元へ視線を落とす。

「じっとして」

「え?」

後ろへ回った怜央の指が、私の首筋のあたりに触れる。
ひゃっと小さく肩が跳ねた。

「ネックレスの留め具、少しずれてる」

「あ……」

言われてみれば、さっきから落ち着かないと思っていた。
怜央の指は器用に留め具を直し、乱れた後れ毛を耳の後ろへ払う。
その一つ一つが丁寧で、ますます落ち着かない。

「はい」

「……ありがとうございます」

鏡の中で目が合う。

もうだめだ。
本家の前に私の心臓がもたない。