そのあと、夫人がふっと表情を和らげて、私へ向き直る。
「梨音さんは?何か困っていることはない?」
「えっ」
唐突にボールが飛んできて、私は一瞬固まった。
困っていること。そりゃあります。契約妻なのに、怜央が近いとか、たまに優しすぎて心臓が忙しいとか、そういう命に関わる系の困りごとが。
もちろんそんなことを言えるわけがない。
私は視線をさまよわせ、うっかり御堂と目が合った。
その瞬間、口が勝手に動いた。
「……たまに、御堂さんから夫婦の距離感について講義を受けること、でしょうか」
沈黙。
一秒。
二秒。
夫人が目を瞬かせ、会長の眉がわずかに上がる。
当の御堂だけが平然としていた。
「必要な実務です」
「出典が恋愛小説なんです」
私が続けると、ついに夫人が吹き出した。
「まあ!」
「御堂」
会長が額に手を当てる。
「お前、また妙な勉強をしているのか」
「妙ではありません。夫婦の日常会話、視線の頻度、接触の自然さについては、一般書よりフィクションのほうが事例数が多い」
「事例数で恋愛を語らないでください」
「定量的分析は重要です」
真顔で返されて、余計に腹が立つ。
夫人は肩を震わせながら「ごめんなさいね」と笑い、会長は珍しく口元を緩めた。
「御堂、お前はまず自分で恋愛をしてからにしろ」
「業務に支障が出るので、現時点では予定しておりません」
「予定で管理するものじゃないでしょう」
私がつっこむと、御堂はほんの少しだけ耳を赤くした。勝った。出会って二度目の勝利である。
ひとしきり笑いがおさまったあと、夫人がやさしく言った。
「でも、そうやって話せているなら大丈夫ね。明日の会食も、難しく考えすぎなくていいのよ」
「久遠家の皆様って……やっぱり、厳しいですか」
恐る恐る聞くと、会長が正直に答えた。
「やさしい人ばかりではない」
胃がまたきゅっとなる。
ですよね。そうですよね。
「ただ」会長は続けた。
「君が怯える必要はない。怜央の妻として隣にいる。それだけで十分だ」
「あなたが一人で矢面に立つことはないわ」
夫人もすぐに重ねる。
「何かあれば、怜央も、私たちもいるもの」
その言葉は、思っていた以上に心強かった。
偽物の妻のはずなのに、こんなふうに守ってもらえることが、少しだけ痛い。
食事の最後、夫人は明日のためにと濃紺のドレスを用意してくれると言った。
派手すぎず、でも本家の場に失礼のないものを、と。
私は恐縮しきりだったけれど、「これは私の楽しみでもあるの」と言われて、断れなかった。
「梨音さんは?何か困っていることはない?」
「えっ」
唐突にボールが飛んできて、私は一瞬固まった。
困っていること。そりゃあります。契約妻なのに、怜央が近いとか、たまに優しすぎて心臓が忙しいとか、そういう命に関わる系の困りごとが。
もちろんそんなことを言えるわけがない。
私は視線をさまよわせ、うっかり御堂と目が合った。
その瞬間、口が勝手に動いた。
「……たまに、御堂さんから夫婦の距離感について講義を受けること、でしょうか」
沈黙。
一秒。
二秒。
夫人が目を瞬かせ、会長の眉がわずかに上がる。
当の御堂だけが平然としていた。
「必要な実務です」
「出典が恋愛小説なんです」
私が続けると、ついに夫人が吹き出した。
「まあ!」
「御堂」
会長が額に手を当てる。
「お前、また妙な勉強をしているのか」
「妙ではありません。夫婦の日常会話、視線の頻度、接触の自然さについては、一般書よりフィクションのほうが事例数が多い」
「事例数で恋愛を語らないでください」
「定量的分析は重要です」
真顔で返されて、余計に腹が立つ。
夫人は肩を震わせながら「ごめんなさいね」と笑い、会長は珍しく口元を緩めた。
「御堂、お前はまず自分で恋愛をしてからにしろ」
「業務に支障が出るので、現時点では予定しておりません」
「予定で管理するものじゃないでしょう」
私がつっこむと、御堂はほんの少しだけ耳を赤くした。勝った。出会って二度目の勝利である。
ひとしきり笑いがおさまったあと、夫人がやさしく言った。
「でも、そうやって話せているなら大丈夫ね。明日の会食も、難しく考えすぎなくていいのよ」
「久遠家の皆様って……やっぱり、厳しいですか」
恐る恐る聞くと、会長が正直に答えた。
「やさしい人ばかりではない」
胃がまたきゅっとなる。
ですよね。そうですよね。
「ただ」会長は続けた。
「君が怯える必要はない。怜央の妻として隣にいる。それだけで十分だ」
「あなたが一人で矢面に立つことはないわ」
夫人もすぐに重ねる。
「何かあれば、怜央も、私たちもいるもの」
その言葉は、思っていた以上に心強かった。
偽物の妻のはずなのに、こんなふうに守ってもらえることが、少しだけ痛い。
食事の最後、夫人は明日のためにと濃紺のドレスを用意してくれると言った。
派手すぎず、でも本家の場に失礼のないものを、と。
私は恐縮しきりだったけれど、「これは私の楽しみでもあるの」と言われて、断れなかった。



