【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

その夜の食卓は、思っていたよりずっと穏やかだった。

長いテーブルの端ではなく、会長夫妻の私邸側にある小さめのダイニング。
柔らかな照明に、湯気の立つ和食。
いかにも「財閥の晩餐」という緊張感を覚悟していた私は、拍子抜けするくらいだった。

「そんなに固くならないで」

夫人がやさしく笑う。

「今日は家族だけですもの」

家族、という言葉に胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
私はうまく笑えた自信がないまま、勧められた席に座った。隣には怜央、その向かいに会長夫妻。少し離れた位置に、当然みたいな顔で御堂が控えている。

最初は当たり障りのない会話だった。
怜央の食事制限の話。病院のこと。庭の木の枝が伸びすぎて、庭師さんと怜央が珍しく意見を戦わせた話。
それだけなのに、会長夫妻の目が時々、私へやわらかく向く。

食事がひと段落したところで、会長が箸を置いた。

「梨音さん」

名前を呼ばれて、背筋が伸びる。

「改めて礼を言わせてください。怜央の体調も、記憶の混乱も、君が妻として隣で支えてくれた」

低く落ち着いた声だった。
押しつけがましさはないのに、言葉の重みだけが静かに残る。

夫人も頷く。

「本当にありがとう。あの子、昔から平気な顔をして無理をするから……誰かの前で弱音を吐けること自体が、私たちには驚きだったの」

私は慌てて首を振った。

「そんな、私はそばにいただけで」

「その『そばにいる』が、一番難しいこともある」

会長の言葉に、私は何も返せなかった。
事故の夜、怜央に「離れるな」と言われた瞬間がよみがえる。
あの冷たい手の感触は、今でも忘れられない。

ふと、隣で怜央が静かに口を開いた。

「体調はもう問題ありません。仕事も通常復帰しています」

「記憶のほうは?」

会長に問われて、怜央は一度だけ視線を落とした。

「医師としての知識と、病院のこと、幼少期の記憶はかなり戻りました。病院の同僚の顔や名前、症例のことも思い出せる。ただ……」

その先は、少し低くなる。

「事故の前後を含めて、ここ数年の私生活だけが、まだ抜けています。近年の個人的な交友関係も、自分の感情の流れも、そこだけ曖昧です」

食卓に小さな沈黙が落ちた。
けれど会長も夫人も、顔色は変えなかった。

「焦る必要はないわ」

夫人が先に言う。

「戻るものは戻るし、戻らないものを無理にこじ開ける必要もないわ」

「母さん」

怜央が少しだけ困ったように呼ぶと、夫人はくすりと笑った。

「何より、今の怜央がちゃんと前を向けているなら、それで十分よ」

会長も頷いた。

「思い出せないことを恥じるな。仕事に戻れている。自分の足で立てている。それでいい」

その言い方が、厳しい人らしい不器用な励ましで、私は少しだけ胸が熱くなる。
怜央も短く「はい」と返しただけだったけれど、その横顔はどこかやわらいで見えた。