【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

サイレンが近づく。
赤い光が雨を裂いて、車体に反射した。

救急隊員が駆け寄ってくる気配がしても、彼の手はすぐには離れなかった。隊員が状況確認をして、ドアの拡張準備をし、私に後ろへ下がるよう指示しても、その指だけが私を引き留める。

「同乗者ですか?」

「違います、通りがかりで」

「救助時の状況、説明できますか」

「はい」

答えながらも、私はつながれた手を見下ろしていた。

隊員が優しく声をかける。

「大丈夫ですよ。こちらで引き継ぎます」

それでも彼は離さない。

仕方なく私は、握られたまま少し身を寄せた。

「救急車、来ました。もう大丈夫です」

「……」

「私、いますから」

自分でもおかしな台詞だと思う。
他人に言う言葉じゃない。しかも名前も知らない相手に。

でも、その一言で彼はようやくゆっくり指をほどいた。

救急隊員が素早く処置を始め、彼はストレッチャーに乗せられる。私は雨の中に立ち尽くしたまま、切り離された自分の手首を見た。そこだけ、体温が残っている気がした。