【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

吐く息が白い。指先が、指輪の輪郭を無意識に確かめる。

……冷たい。指輪の金属って、こんなに冷えるんだ。

冷えたのは指先だけじゃない。胸の奥にも、薄い氷が張っているみたいだった。

怜央の回復は嬉しいことのはずなのに、なぜか怖い。

私はあと1か月で妻役から卒業する。
この家から。怜央の隣から……。

「寒い?」

背後から、怜央の声がした。低くて落ち着いていて、庭によく馴染む声。

「……っ」

びく、と肩が跳ねたのが悔しい。梨音は慌てて振り返って、笑顔を作る。

「……大丈夫だよ」

怜央は、まっすぐこちらへ歩いてくる。足取りはもう、危うさがない。リハビリしていた頃にあった、わずかな躊躇いが消えている。

怜央は私の前まで来ると、視線を上から下へ一度だけ滑らせた。まるで診察みたいな目。

「手、出して」

「え?い、いきなり……」

「診る」

短い言葉。理由が医者っぽいのに、距離が夫っぽい。

私がおずおずと手を出すと、怜央は迷いなく握った。掌が大きい。指が長い。体温が、じわりと移ってくる。

「冷たい」

「今日は寒い日だから」

「そういう問題じゃない。冷えてるのは事実だろ」

「はいはい、先生」

私が冗談めかして言うと、怜央は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。

「その呼び方、懐かしい気がする……」

……だって。昔、私、取材であなたのこと先生って呼んでた。
言えない。今は言えない。
言ったら、この妻の世界が壊れる気がする。

「少し歩こう。庭を」

怜央は当たり前のように私の隣へ並ぶ。歩調を合わせるのが、呼吸を合わせるみたいに自然だった。

石畳を踏む音が、二人分、一定のリズムで重なる。冷たい空気のなかで、耳だけが妙に敏感になる。

……ほんとに、普通に歩いてる。

ほんの数週間前まで、怜央の歩幅に合わせるのは介助だったのに、その頃の思い出が、今は遠い昔に感じる。

「……ここまで回復できたのは、君のおかげだ」

唐突に、怜央が言った。

私は、足を止めかけてしまう。危うく転びそうになったのを、笑って誤魔化した。

「怜央さんが頑張ったんだよ」

「いや」

怜央は否定する時だけ、少しだけ頑固だ。

「俺は……君がいたから、リハビリを頑張れた」

怜央が真剣に、まっすぐに言う。

「だから、ありがとう。梨音」

名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなるのがわかる。反射みたいに、涙が目の縁に溜まってしまった。